考え方と歴史

熊野信仰について②

こんにちわ!ゆーすけです。(@jinja_hyakka

熊野信仰について①に引き続き、熊野修験道について説明します。

修験道の起源

熊野本宮を含む霊山や霊場には、いずれも山を開いた開創者の伝承があります。狩人や山民に案内されて入山した高僧や修験者が山を開いたとする縁起伝承が一般的です。

このような開創縁起は、歴史的開創より信仰的開創の方が古いことを意味しています。たとえば、空海は「犬飼」や「高野の山の主」と名乗る猟師や山人に導かれ高野山に金剛峯寺を建立しました。この場合、猟師や山人は山の神を祀る祭祀者の始祖と推定できます。そして、開山者の空海が神格化されると、山の神を祀る祭祀者と同じ立場になるわけです。

熊野にも同様の開創縁起があります。「熊野権現垂迹縁起」は、河内の住人、熊野部千代定という犬飼(猟師)が、本宮の山の神に導かれ、大湯原(大斎原)の木の下に導かれた事を記しています。

この熊野千代定の子孫が熊野本宮の山人集団となり、仏教を導入し修験道を始めたと考えられます。また、時宗の開祖・一遍が熊野本宮に山籠し熊野権現から神託をうけましたが、一遍聖絵では熊野権現が山伏の姿で描かれています。この山伏は熊野本宮の山人集団だったのでしょう。

海の修験道

熊野が海や川と深いかかわりがあった事は、新宮速玉大社が鎮座している場所が熊野川の河口近くということからも理解できます。

熊野川河口近くに、南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、神奈備の典型とも言うべき姿をした蓬莱山があります。この山の南麓には熊野速玉大社の摂社になっている阿須賀神社があります。

阿須賀神社は、現在、熊野権現を祀っていますが、平安時代後期は熊野詣の代表的な九十九王子の一つでした。

王子とは、熊野詣の途中で拝む小詞のことで、京都から熊野への参詣道で約2キロメートルごとに設けられていました。

大坂から海岸線を南下し田辺から山中に入って本宮に至る中辺路ルートと田辺から潮岬を経て新宮、本宮に至る大辺路ルートがあります。

中辺路ルートの王子は、現世とあの世を結ぶ境界と考えられていた位置にあります。大辺路ルートの王子は田辺から速玉社までの海岸線に設けられていて、海には常世国があるのであの世、陸地は現世とすると、大辺路ルートの王子もまた両世界の境界線に建てられているのです。

現世において最もあの世に近い位置にあるこれらのルートに沿って、各王子で海洋他界の常世を拝しつつ、京都と本宮や新宮との間を移動する遍路修業が行われていたのです。

阿須賀王子は熊野三社ができる以前から海岸にあり、海洋宗教の聖地でしたが、熊野三社の勢力が大きくなったので単なる王子になってしまいました。阿須賀神社がある蓬莱山の周辺は遍路修行者が集団をなし、これは阿須賀修験と名付けられました。

もう一つ、別の神倉修験の存在が推定されていて、「熊野権現垂迹縁起」には神倉山に熊野神が降ったと記されています。

神倉山は、速玉社の南西、千穂ヶ峯を主峰とする権現山の南端に位置する標高約120メートルの低山です。山頂には、ゴトビキ岩という磐座があります。日本書紀には、神武天皇が大和入りしようとした時、熊野神邑(みわのむら)の天磐盾に登り、荒坂の津で高倉下命(たかくらじのみこと)から神剣韴霊(ふつのみたま)が献上されました。この天磐盾は神倉山と見なされています。

高倉下命と八咫烏は主従関係にあり、またゴトビキ岩に宿る神は高倉下命です。だから、八咫烏は高倉下命と主従関係にあった烏帽子をかぶった熊野の山伏を指します。

熊野の使わしめはカラスであり、これは風葬によるものと考えられています。風葬では死体の回りにカラスが集まるので、カラスは不吉な鳥、神聖な鳥として信仰されていたのです。そして、風葬が盛んだったので、熊野には古墳がありません。田辺に数個ある程度です。風葬で集まるカラスは死者の霊とみなされ、目に見えない霊がカラスとして出現すると考えられていたのです。

神武天皇の東征で登場する八咫烏は熊野の山伏で、この山伏達を従える神が高倉下であったこと、神倉山の真東に阿須賀の蓬莱山、その向こうに常世である海があることから、高倉下は海の彼方から来る海洋神と思われます。

阿須賀修験が浜の宮、神倉修験が山の宮とする王子信仰であり、速玉社が祀られると共に速玉社に奉仕したと考えられています。

法華経の実践

海の修験は、「日本霊異記」にも記されています。

永興禅師という僧は熊野村に住み、法華経を読誦する山岳修業をおこない、海辺で人をよく教化しました。永興のところに法華経と白銅水瓶、縄床を持った一人の僧が訪ねてきました。法華経の読誦に専念して1年がたち、また山に入って修業し、伊勢国に越えていきたいと言いました。

「熊野から伊勢国へ越える」というのは、海岸の道を通ることを意味し、これは遍路修業に出たことを指しているのです。

それから3年後、熊野の村人は熊野の川上で法華経を読む声を聞きました。このことを永興に告げると、永興はその場所に行き、断崖の巌に麻の縄を二つの足に繋ぎ、巌に懸けて身を投げて死んだ白骨の死体を見つけました。

その傍らに水瓶があり、別れた僧であると分かったのです。そして「死んでからも、経を読む音、常の如く止まず」という霊験を理解しました。

この僧は断崖で行道、すなわち危険な断崖にある岩にしがみつきながら、岩を巡る苦行を行い、身を捨てる捨身行をしたのです。この捨身行は、平安時代から鎌倉時代の山林修行者や遍路修行者にとって苦行の極致と考えられた厳しい宗教的実践行でした。

海の修験から山の修験へ

10世紀から11世紀前半にかけて、熊野と吉野(奈良)を結ぶ小峰修行路が成立しました。

大峰山の修験道は、奈良吉野山から熊野に至る紀伊半島の中央に長く伸びる大峰山脈を言います。山上ケ岳、弥山、八経ケ岳、玉置山などの峰々があります。8世紀ごろから樹下経行した広達のような山岳修業者が存在し、10世紀には比叡山西塔の宝幢院の僧・陽勝仙人の笙の窟伝承や宇多上皇の行幸、熊野から金峰山に往った義睿、長円、浄蔵法師などが現れます。

本宮には山伏が群れを成して生活し、厳しい山岳修業を目指す修験集団の聖地でしたが、11世紀には熊野三山検校を頂点とする組織化された政治的、宗教的な一大勢力に発展していきました。

11世紀中頃には、海の宗教であった速玉社や那智が独立し、山の本宮と結ばれます。速玉社や那智は、それぞれ他の二神を勧請し、熊野三所権現が成立しました。そして垂迹説により本宮のケツミコガミには阿弥陀仏、新宮の速玉神には薬師如来、那智の夫須美神には千手観音と本地仏が配置され、霊験性がさらに深くなったのです。

組織的に行事やインフラが整備され、院政期には上皇・女院・公卿の熊野詣でが行われ、中世には豪族や武家から庶民におよび、人まねの熊野詣、蟻の熊野詣と呼ばれる全盛期を迎えます。

阿弥陀信仰、薬師・観音信仰

如来は、如来が強化することが出来る地域である仏国土を持ちます。阿弥陀仏の仏国土は西方浄土で、このような仏国土と日本の霊場が同一視されました。

本宮は、山の上の死後の国と見なされていたので、ここは阿弥陀仏の浄土と同一視され、ケツミコガミが阿弥陀仏と比定され、死後の救済を求める聖地に変わりました。那智と速玉社は、海の常世信仰と観音信仰や薬師信仰とが結ばれ、現世利益を求める聖地になりました。

熊野は、神も仏もいる、かなり有難い場所になったわけですが、庶民が簡単に参拝できたかというと、そうではありませんでした。熊野までの道のりは険しく修験道の修業をした者だけが参拝できたのです。そこで、願い事がある人は、願い事を記した願文を書き、これを山伏に託し、代わりに参拝してもらう代参をしたのです。

小峰修行路ルート開通後であっても、庶民には熊野まで参拝する時間的、経済的余裕がなく、熊野に直接、参拝することが出来たのは、法皇、貴族などの富裕層だけでした。

中世に入ると、武士や豪族が熊野詣でをはじめます。武士や豪族に熊野信仰を広げた熊野先達と呼ばれる修験者によるものでした。

熊野先達は、全国各地で熊野権現の霊験について説き、熊野への参拝者を熊野まで誘導しました。熊野まで来ると、熊野先達は参拝者を熊野御師という修験者に引き渡します。熊野御師は、宿場を提供し、参拝者と共に祈祷したのです。

簡単に言えば、熊野先達は全国各地で熊野信仰を広げる宣伝役だったのです。この先達と御師の連携により熊野信仰は広く日本に広められ、全国で熊野神社が造られていきました。

補陀落渡海

海の熊野の中心地・速玉社では古代から補陀落渡海が行われていました。補陀落渡海とは、民衆を浄土へと先導するため海の彼方にある常世国・浄土を目指し、山伏や僧侶が小舟で片道の航海に出ることです。山伏が目指す苦行の極致は捨身行とされていたことに由来します。

古代や中世の補陀落渡海の記録を見ると、季節風が吹き南下しやすい11月に多く行われています。これは、補陀落渡海は風を利用し行われていたこと意味しています。行者は補陀落渡海をおこなうまで、現世での罪業を滅する荒行で穢れを祓い、浄土を目指したのです。

ところが、近世に入ると、季節に関わらず補陀落渡海が行われています。これは人が亡くなると、伴走船が沖まで補陀落船を曳航し、綱を切って海に沈めたのです。補陀落船には僧侶の亡骸が入っており、補陀落渡海は一種の水葬となってしまったのです。

まとめ

修験道は熊野が発祥の地となっています。古代熊野は死の国とみなされており、仏教の浄土信仰や薬師・観音信仰と結びつきやすかったのです。こうして一大霊場になった熊野に参拝者の代わりに代参するため修験道が行われるようになりました。また、経済的に余裕があった富裕層は、自ら熊野に参拝しました。時代が経るに従い、民衆も経済的に豊かになり熊野詣が流行し、これに伴い熊野神社が全国各地で祀られるようになったのです。

 

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