考え方と歴史

お稲荷さん

日本の神社で一番多いのが、稲荷神社です。何故でしょう。今回は、狐と日本人の関係について見ていきましょう。

 

弥生時代以前の日本人と狐の関係

 

弥生時代以前の日本人の敵はネズミでした。ネズミは人間の食べ物を食べてしまうからです。そこで、ネズミを食べる狐や狼は益獣とみなされました。このことは、貝塚から狐や狼の骨が出てこないなど人が狐や狼を狩猟で獲っていなかったことからわかります。益獣としての狐の思想はやがて田の神に対する信仰と考えられるようになりました。

 

妖狐

 

中国から伝わってくる狐の思想には、あまり良いものはありませんでした。インドである邪神が100人の王を捕え、一斉に首を切って塚を作れという命令をある王様にくだしました。この命令に従ったある王様は、99人の王を捕えました。100人目の王を捕えたとき、100人目の王は一生の最後に般若心経を唱えさせてくれと懇願します。この般若心経により邪神の命令を聞いた王様は回心しました。この邪神こそが妖狐だったのです。

 

この妖狐は中国に行き美女に化けました。そして、時の皇帝を誘惑し、国を乗っ取りました。この妖狐は、次に日本に来ました。そして、またもや美女に化け、鳥羽上皇に近寄りました。ところが、陰陽師・安部泰成により正体を知られてしまいました。そして、妖狐は日本を乗っ取ることに失敗しました。中国から来た妖狐により、狐は化ける動物、特殊な力を持つ動物と考えられるようになりました。

 

荼枳尼天(ダキニテン)

 

荼枳尼天は、インドのヒンドゥー教の女鬼(鬼女神、羅殺女)に由来します。仏教の密教に荼枳尼天の存在が取り込まれ、大黒天に変身した大日如来の霊力に心服して善心になりました。平安中期、日本に入ってから荼枳尼天は「剣と宝珠などを持った女神が白狐にまたがる姿」になりました。

 

稲荷神社の成立

稲荷神社の総本社は、京都の伏見稲荷大社です。もともと稲荷神社は、京都一帯の豪族・秦氏の氏神でした。平安時代の『新撰姓氏録)』の渡来人や帰化系氏族の約3分の1を占める「秦氏」の項によれば、仲哀天皇の御代に中国・秦の始皇帝の末裔・功徳王が、また応神天皇の御代に融通王が、合計127県(あがた=数千人から1万人規模)の秦氏を引率して、朝鮮半島の百済から帰化しました。

この稲荷神社に、日本固有の神である「田の神」や、仏教・密教の神である「荼枳尼天(だきにてん)」が、習合していきました。

 

稲荷神社は、江戸時代には豊作と商売繁盛の神としてもてはやされるようになりました。このような民間信仰の一環として、伏見のキツネの置物を、神棚に祀る風習がうまれました。このようにして稲荷神社は、単なる氏神ではなく、さまざまな狐に対する思想が加えられ成長していったのです。現在、一番多い神社は、稲荷神社とも言われています。

 

<まとめ>

もともと半島からの帰化人(秦氏)の氏神であった稲荷神社は、日本古来の狐に対する信仰(田の神信仰)や妖狐思想、荼枳尼天が習合しました。広く民間に受け入れられ、江戸時代には豊作や商売繁盛の神とみなされるようになりました。神仏習合の代表格と言えます。

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