考え方と歴史

神仏習合について①

こんにちわ!ゆーすけです。(@jinja_hyakka

神社関連で切っても切り離せない「神仏習合について」です。

以前にも神仏習合についてブログを書きましたがもっと細かく説明をします。

神仏習合の概要

埼玉県飯能市にある竹寺は、東日本で唯一、神仏分離政策を逃れた寺として有名です。山奥であり地元の信仰が篤かったから、神と仏が分離されず、明治以前のお寺の形態を残しています。

どのようなお寺なのでしょうか。

お寺の参道を進むと、鳥居が立っており、鳥居には注連縄の代わりに、大祓の輪くぐり神事で使われる大きな茅の輪が付けられています。

最澄の弟子・慈覚大師、円仁が修業場として建立させたお寺で、御本尊は牛頭天皇です。天台宗のお寺で、山岳信仰の修験場として栄えました。

牛頭天皇と同格と見なされる蘇民将来伝説の武塔天神も祀られています。輪くぐり神事は蘇民将来由来も確認できます。

祇園信仰(ぎおんしんこう)に基づく、京都八坂神社や兵庫県の広峯神社から勧請された神社にしか見えないのですが、立派なお寺なのです。

北関東の一部は神仏分離が上手く進行しなかった地域として良く取り上げられます。神道式の葬式をすると言っても、お坊さんが読経している中、神主がお祓いをするのです。

鳥居のある寺があったり、神社でお経があげられたりします。江戸時代までは、神様も仏様も同じで、寺と神社が同時に建てられたと説明されていたりします。

どうして、こうなってしまったのでしょうか。

一言でいえば、神仏習合によるものなのです。神仏習合とは、仏教と神道は同一とする考え方で、神仏習合の考え方からすると、寺と神社が同時に建ってもおかしくないのです。

神仏習合と本地垂迹説が同一の物とみなされている感じがあるので断っておきます。本地垂迹説とは、「日本の神様はインドの仏教の神様が仮に現れたものであり元は同じ」という考え方で、竹寺の例では、お釈迦様が亡くなった場所に建てられた祇園精舎の守り神である牛頭天皇と日本の神様であるスサノオが同一であるとすることです。

このように神仏習合は難解で理解に苦しむわけです。いきなり神仏習合を説明されても、なんのこっちゃとなってしまうわけです。

神仏習合は、神道と仏教の両立であり、仏教の立場と神道の立場、それぞれで考えないと理解不能でしょう。

上記の竹寺の場合も、仏教側から見ると、御本尊が牛頭天皇であるから天台宗のお寺であり、ここでは神道は滅んでしまったとみなすことも出来ます。

神道側から見ると、山岳信仰、輪くぐり、鳥居などは神道起源で神道固有の物なのでどう見てもスサノオを祀った神社になります。

○〇山××寺と山号がありますが、仏教の何処に山岳信仰の由来があるのでしょう。お釈迦様は、山に登って山頂に達した時、悟りを得たのでしょうか。

そもそも仏教の神様とは、何なでしょうか。ここではお話しする余裕がないので省略します。よく勘違いされるのですが、仏教と山とは本質的に全く関係なく、お釈迦様の教えに神様は存在しません。

ここでは、神仏習合がどのような過程を経て成立したのかを見ていきましょう。神仏習合の過程は、下記の4段階に分けることができます。若干、順序が前後することもありますが、この順に説明していきます。

  1. 神宮寺の出現
  2. 怨霊信仰
  3. 穢れ回避の浄土信仰
  4. 密教による本地垂迹説

仏教伝来について

仏教と神道の両方を理解し、両者の立場から考えてみましょう。

まずは、神仏習合で習合した仏教の宗派を見てみましょう。最初に神様と習合した仏教宗派は雑密(ぞうみつ)と呼ばれるものです。雑密とはいったい何なのでしょうか。

仏教伝来当時、日本人の中で誰が仏教を理解していたでしょうか。おそらく誰も仏教がどのようなものなのか理解できていなかったと思われます。

仏像を見た飛鳥時代の人々は、これを神様の依り代と考え、氏神の祭祀を真似て氏寺を作り、仏像の前で祖先を祀りました。

葬式仏教と言われている現在、仏像の前でご先祖供養を行うのは当たり前ではと思われるでしょう。ですが、葬式の遂行が仏教の本質ではありません。この世の苦難から解放されることが仏教の目標なのです。

こうした視点から、氏寺は後に菩提寺になっていきますが、仏教側からすると不本意に見えます。

仏教伝来直後、仏教者がまずやらなければいけなかったことは「布教」です。だけど、庶民は神様に対する祭祀を行うのが限界で、仏教を学ぶ暇や余裕などありませんでした。

また、仏教は大陸の優れた学問と見なされていたので、「ただ学べばよい」と思われていました。実際、東大寺を除く奈良時代の南都六宗のお寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、唐招提寺では盛んに仏教が研究されていましたが、布教は行われませんでした。

仏教を盛んに広めようとした人たちは、南都六宗のお寺には属さない雑密と呼ばれる教えを信じていた朝廷非公認の僧侶でした。

この雑密がまず神道と習合するので、これ理解しないと神仏習合が理解できません。

雑密について

インド仏教は、小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教に分かれます。日本は大乗仏教がメインですが、インドでは小乗仏教がメインです。

修業した者だけが救われるという小乗仏教は、一般の世俗人を仏教に誘い込むことが出来ず、この反省から大乗仏教が発生しました。マイナリティーの大乗仏教は、教えを広めないと滅ぶ運命にあったのです。

価値観の異なるインド以外の諸民族にまで仏教を拡げるため、広く具体例の蓄積を行い、悟りへの道を示す論理を極度に普遍化・抽象化しました。この結果、大乗仏教は難解で、理解し難いものになったのです。

庶民に全く理解できないという行き詰まりを解決するため密教が生まれました。さらに、お釈迦様入滅後、数千年が経ち、インドではお釈迦様の神格化が進行していました。

この初期密教(雑密)では、お釈迦様以外にもヒンドゥー教などの神々を取り込み、インドの土着信仰を仏教化し、呪術的な修法、修業に重点が置かれました。

蛇足ですが、インドでは、ヒンドゥー教などの神々を取り込んでしまった結果、仏教自体がヒンドゥー教と見なされ、仏教は滅んでしまいます。

このように、雑密とはマジカルな呪術に重点が置かれ、普遍性や抽象性が欠けた教えでした。マジカルな呪術を中心としている点では、神道と同レベルだったのです。

地方豪族の苦悩

最初に神仏習合現象が現れたのは地方の氏神です。大宝律令が施行された後、地方の豪族は律令制度の行き詰まりに直面し、様々な苦悩を抱えます。

大宝律令が施行される以前は、地方の豪族たちは各自の氏神を祀り、豪族の支配地域にある地域共同体の神々が氏神に支配されているとしました。

また、古墳時代の大和朝廷は豪族たちの連合政権でした。中国の優れた統治システムである律令制度を導入するためには、統一国家を形成しなければなりませんでしたが、大和朝廷に地方の豪族たちを従わせるだけの武力はありません。

そこで豪族の連合政権は、天皇の皇祖神は地方豪族の氏神を支配していると主張し、形式上、地方豪族を大和朝廷に従わせたのです。

律令制度が施行され、租税が開始されました。

朝廷は、天皇が豊作を祈願した稲籾を豊作祈願祭で全国の豪族に幣帛として与えます。同様に、地方豪族は、支配地域をまとめる神社に幣帛の稲籾を与えます。

「幣帛として与えられた稲籾を、田植えに使用する稲籾に混ぜると豊作になる」と信じられました。そして、豊作が祈願された稲籾を使用したお礼として収穫した初穂の一部を税として納めました。このようにしないと税というものは庶民には理解されなかったのです。

形式上、幣帛が貸され、これを使用した代わりに税を納めたのです。だけど、あまりにも税の取り立てが厳しかったので逃げ出す者も居ました。

また、豊作になった場合、農民や豪族が税を納めても収穫物が余り、これが私有財産になりました。私有財産が溜まると、朝廷の幣帛を必要としなくなったり、庶民の間や庶民と豪族の間で格差が発生したりして律令制度は行き詰まります。

庶民の間で格差が発生すると、富んだ農民は私有地を耕して勢力を付け、豪族の支配を脅かしました。また、私有地を所有する事自体、律令制度の崩壊につながりました。豪族が税を私物化すると、庶民が反抗したり、逃亡したり、豪族が税をすべて朝廷に納めると豪族の勢力が低下し、他の豪族との勢力争いで敗れる恐れがありました。

このため私財蓄積など格差が生じる行為は朝廷が厳しく取り締まりました。が、あまり成功しなかったのです。

このように神道を土台とする律令制度が行き詰まると、豪族たちは神道以外の仏教に普遍的価値を見出そうとしました。また、仏教が広まるにつれ私財の所有は罪業であると信じられるようになりました。

豪族たちは神道に嫌気がさし、仏教で救われたいと願うようになりました。

神身離脱と神宮寺の出現

最初の神仏習合は、地方豪族たちの仏教に帰依したいと願いを雑密の僧侶が叶えることで起こりました。

多度大神の例は、詳しい史料が存在するのでよく採り上げられます。

763年、神社の東側に満願禅師が住んでいました。ある時、ある人が神様のお告げを聞きました。

「私は多度大神である。長い間に渡り、重い罪を作ってきたが、やはり神として存在している。今こそ、神の身を離れ仏教に帰依したいと思う。」と告げたのです。これを聞いた満願禅師は、神社の南側にお堂を建て、多度大神の像を菩薩形に彫り上げ安置しました。これが多度神宮寺の始まりです。

このように、「神様も人と同じように苦悩を抱え、仏教に帰依し救われたい」と願うことを神身離脱と言います。

神宮寺とは、威力が衰えた神様を仏教で救い守るため神社の近くに建立された寺院を言います。

この多度大神のお告げは、神様のお告げではなく、豪族の本音だったと考えられています。皇祖神に従い地域共同体の神を支配する神道体系から離脱したいという神様の願いは、律令制度の支配体制から離脱したいという豪族の願いだったのです。

多度大神以外にも、越前国気比大神、若狭国若狭彦大神、近江国奥津島大神など多くの神様が仏教に帰依したい旨の意思を示をし、神宮寺が建てられました。

各地に神宮寺が建てられると、次に神様の前でお経を読む神前読経が盛んに行われるようになります。神様の前で読むのは祝詞ですが、神仏関係が大きく転換すると、神様は仏法やお経を悦ぶと考えられたのです。

神仏習合の第一段階と言われている神身離脱は、まず地方で発生しました。神身離脱は、教えを広めたいという仏教側にとって都合の良い話でした。

護法善神について

護法善神は、神身離脱が進んだ時、「神様が仏教に帰依し、仏教や寺院を守るようになった」と考えることです。

768年に藤原氏により建立された春日大社と藤原氏の氏寺である興福寺は、建立当初、同一視されていませんでした。が、「春日大明神は法相擁護の神である」と興福寺が主張し、974年から春日大社での読経が開始されました。春日大明神は、春日大社の神宮寺である興福寺を護るために存在していると主張したのです。

東大寺は、宇佐八幡神が大仏建立に協力したとし、八幡神を手向山八幡宮に勧請し、鎮守神としました。ほかにも、延暦寺の日吉大社、金剛峯寺の丹生神社、東寺の伏見稲荷大社など仏教の守護神になった神様が知られています。

このように神宮寺を守護する神様を護法善神と言います。

また、有名な寺院に付属して寺院を護るために建てられた神社を鎮守社と呼びます。神仏習合が完成した後に現れます。

神身離脱や護法善神以外に起源を持つ神宮寺

上田正昭氏は、神身離脱や護法善神などの神宮寺成立過程以外に神奈備(かんなび)、磐座(いわくら)、神籬(ひもろぎ)などをベースとする神宮寺の存在を指摘しています。

京都府木津川市馬場南遺跡は、神雄寺(かむのおでら)跡と考えられています。上田氏は、水の祭祀場である神奈備山である天神山があり、この神奈備信仰を基にして神雄寺が建てられたと考察しています。

ほかにも、備後国三谷村の三谷寺、福井県越前町剣神社内の剣御子寺跡、京都府亀岡市の神尾(山)寺などを、神奈備をベースとした神宮寺であると指摘しています。

山の神がそのまま仏教に帰依したのでしょう。

まとめ

ここでは神宮寺の出現について説明しました。神仏習合は地方から進行していったのです。

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