考え方と歴史

熊野信仰について①

こんにちわ!ゆーすけです。(@jinja_hyakka

早速ですが

神道は以下の三つの信仰から成り立っています。

  • 山や海、巨木や奇岩などを神の依代(よりしろ)とする自然神信仰
  • 一族の祖霊を神とする祖先神信仰
  • 土地や農耕の神など水田稲作を起源とする信仰

自然神信仰は狩猟や漁業で生活していた縄文人の信仰、祖先神信仰は朝鮮半島から渡来した大陸系の人々の信仰、土地や農耕の神などに対する信仰は水田稲作発祥の地である揚子江流域から台湾や沖縄を経由して伝えられた信仰です。

現在、熊野三山は一体と見なされていますが、本宮は元々は熊野川を神の依代とする信仰、那智は滝を御神体とする信仰、速玉社は神倉山の「ごとびき岩」を神の依代とする信仰でした。

ルーツの異なる独立した自然神信仰が3つあったわけですが、そこに祖先神信仰が流入し、本宮の神をスサノヲ、那智の神をイザナミ、速玉の神をイザナギ、その他熊野の山々に鎮まる神々を祖先神信仰の神々に割り当てられました。このため独立した自然神であった熊野の神々は、祖先神信仰を基に体系化されました。

こういうことから、熊野の神々は、自然神的側面と祖先神的側面の両面を持ちつつ、自然神的色彩を色濃く残しているのです。

また、熊野は修験道発祥の地でもあります。修験道とは、自然神信仰と密教が習合した信仰で、修験者達は熊野の山奥や那智の滝などの自然神の前で読経し修行しました。修験道を介して神道と密教が一体となった信仰が熊野信仰となっています。

 

三熊野について

この熊野信仰成立の根底にある自然神信仰は、三つの熊野に分けて考察されています。山の熊野、海の熊野、窟の熊野の三分野です。

山と海の熊野は古くから研究されていました。ここに、五来重氏が岩の熊野の概念を提唱し、海や山に加え、岩の熊野の概念が独立し、自然神をうまく分類できるようになりました。

山の熊野

山の熊野というのは、熊野全体が現代の恐山と同じく死者が集まる地域と信じられていたものが仏教の浄土信仰と習合したものです。山全体が死者の国という信仰を山中他界説と言います。

熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)、すなわち本宮は山の熊野の概念の中心です。

平安時代中期以降、証誠殿(しょうじょうでん)の主神である家津御子神(けつみこがみ)の本地仏が阿弥陀如来となり、この阿弥陀如来を拝むと極楽に往生できるという信仰が発生しました。

このような信仰が発生した原因や熊野本宮の発祥は、山岳宗教起源論と山中他界説で説明されます。

霊山(神奈備山)の山麓やその周辺に住む人々は、死体を山中や山麓に葬る習俗がありました。死者の霊魂は荒魂となり、子孫が鎮魂することで清められ和魂となり、山の高みに行き、霊の留まる世界である常世国の一部になります。この常世国が神格化されたものが山の神です。

熊野には神奈備山がたくさんあり、これらに付属する常世国もたくさんありました。やがて、これらの常世国は一体となり、熊野の山岳地域全体が常世国と見なされ、結果として、熊野は現在の恐山のような死者が集まる地域と見なされるようになったのです。

熊野本宮の発祥は山の常世国の中心と見なされています。が、熊野川の支流・十津川にある特殊な水葬があったことに由来するという説もあります。

熊野本宮は、1889年(明治22年)の水害で流出するまでは、現在の鎮座地より500メートル下流の大斎原(おおゆのはら)に鎮座していました。ここは熊野川と音無川、岩田川が合流する中州でした。

一方、熊野川の上流には十津川があります。民俗学者の宮本常一氏は十津川から天川を調査し、吉野西奥民俗採訪録を残しています。これによると、十津川の河原に墓を作り、洪水が来ると墓は流されてしまう伝承があるのです。洪水により流された死体が、砂州となっている本宮の中州に流れ着く可能性は大きいわけで、熊野神道の祭神には流れ着いた死体を神格化されたとも考えられます。

 

海の熊野

熊野の南側には熊野灘と太平洋が広がっています。海と言えば、国文学者の折口信夫によるマレビト論が思い浮かびます。

マレビト論によれば、山の上にある常世国と同じく、海の彼方にも海の常世国があるとされています。山幸彦が訪れたワダツミの宮や牛頭天皇が訪問した八大龍王の宮、浦島太郎の竜宮城などが海の常世国を表したものです。

古代の風土記の逸文「伊勢国号」には、神風の伊勢の国、常世の浪寄する国とあります。つまり、伊勢国は海の常世国から波が寄せられる国ということです。伊勢に隣接する熊野もまた常世国から波が寄せる地域となります。

さらに熊野は、山中にある死者の国に加え、海の彼方にある死者の国への入り口とも考えられていたわけです。海の熊野の信仰の中心地は、新宮・速玉社でした。このことは修験道の起源で説明します。

 

窟の熊野

熊野には、イザナミの墓があります。三重県熊野市有馬町の海岸に位置する「花の窟」のことです。

花の窟がイザナミの陵に想定されるまでのプロセスを考えてみましょう。平安中期の修行者・増基法師が、花の窟を見聞し、紀行文「いほぬし」に記しています。

『この浜の人、はなの岩屋のもとまでつきぬ。見ればやがて岩屋の山なる中をうがちて、経を籠め奉りたるなりけり。これは弥勒ほとけの出たまはむ世に、とり出たてまつらむとする経なり。(中略)そとばの苔にうずもれたるなどあり。かたはらにわうじ(王子)の岩屋というあり。』

ここには花の窟屋がイザナミの陵という記載はありません。あくまでお経を埋葬する霊場でした。そして、そこには死者を供養する卒塔婆があり、傍らに王子の岩屋があったことが記されています。

この王子というのは、太平洋の海岸に沿って海辺を歩く苦行を行う宗教者が、海の常世国を遥拝する神聖な洞窟です。つまり花の窟は古代の宗教的修業場だったのです。

このような洞窟は風葬の場所として活用されました。黄泉の穴のように他界へ通う入り口とみなされたのです。被葬者のため、古代有馬の住民は花の窟で、花とつつみ・笛・幡で死

者を鎮魂する歌舞をおこないました。このような死者供養の要素が重なり、花の窟が熊野の聖地になったと推定されます。そして、ついにはイザナミの陵へと転換されたものと推定されます。

 

 

熊野三社の祭神

熊野の祭神は、自然神であるムスビノカミ、コトサカノカミ、ハヤタマノカミ、ケツミコガミ、オオナムチ、クニサツチ、トヨクムネ、ウヒヂニ、オオトノジ、オモダル、天孫であるアマテラス、オシホミミ、ニニギ、山幸彦、ウガヤフキアエズです。

家都美御子神(ケツミコガミ)はスサノオとする伝承があります。スサノオは根の国の王と考えられていたため、熊野に結び付けられるようになりました。スサノオは荒ぶる神だったため、他界へ追い出されます。荒ぶる神は荒魂と解釈され、死者の霊の性格を有していたのです。

すなわち、死者もスサノオも、祀らなければ祟るが、祀れば恩寵の神・和魂になるということです。ケツミコガミのケは食べ物のこと、ツは「の」という意味なので、食べ物の神様となり、祀れば豊作になりますが、祀らないとヤバイわけです。こうして、スサノオとケツミコガミが同一視され、やがて山の神となっていきます。

「熊野権現垂迹縁起」では、熊野の祭神を渡来の神としています。中国・唐の天台山→豊前国彦山→伊予国・石鎚山→阿波国遊鶴羽峯→紀伊国無漏郡切部山→熊野新宮の南の神倉峯→新宮の東の阿須賀の北・石淵の谷という経路で熊野の祭神を勧請して祀ったと記されています。

この縁起は、むしろ熊野信仰が切部山や遊鶴羽峯、石鎚山、彦山などの霊山に伝播したことを物語にしたもので、これらの霊山の神々は同一ということを主張しているのです。

熊野本宮大社の社殿・祭神・本地仏

社殿 祭神 本地仏
上四社 第一殿 西御前 熊野牟須美大神

(むすびのかみ)

事解之男神

(ことさかのをのかみ)

千手観音
第二殿 中御前 速玉之男神

(はやたまのをのかみ)

薬師如来
第三殿 證証殿 家都美御子大神

(けつみこのおおかみ)

阿弥陀如来
第四殿 若宮 天照大神(アマテラス) 十一面観音
中四社 第五殿 禅児宮 忍穂耳命(オシホミミ) 地蔵菩薩
第六殿 聖宮 瓊々杵尊 (ニニギ) 龍樹菩薩
第七殿 児宮 彦火火出見尊

(ホオリ、山幸彦)

如意輪観音
第八殿 子守宮 鵜葺草葺不合命

(ウガヤフキアエズ)

聖観音
下四社 第九殿 一万十万 軻遇突智命

(カグツチ、火の神)

文殊菩薩

普賢菩薩

第十殿 米持金剛 埴山姫命

(ハニヤス、土の神)

毘沙門天
第十一殿 飛行夜叉 弥都波能売命

(ミズハノメ、水の神)

不動明王
第十二殿 勧請十五所 稚産霊命

(ワクムスビ)

釈迦如来

 

熊野速玉大社の社殿・祭神・本地仏

社殿 祭神 本地仏
上四社 第一殿 結宮 熊野夫須美大神

(むすびのかみ)

千手観音
第二殿 速玉宮 熊野速玉大神

(はやたまおおかみ)

薬師如来
第三殿 証誠殿 家津御子大神

(けつみこのおおかみ)

国常立尊

(くにのとこたちのみこと)

阿弥陀如来
第四殿 若宮 天照大神(アマテラス) 十一面観音
神倉宮 高倉下命 (本地仏なし)
中四社 第五殿 禅児宮 忍穂耳命(オシホミミ) 地蔵菩薩
第六殿 聖宮 瓊々杵尊 (ニニギ) 龍樹菩薩
第七殿 児宮 彦火火出見尊

(ホオリ、山幸彦)

如意輪観音
第八殿 子守宮 鵜葺草葺不合命

(ウガヤフキアエズ)

聖観音
下四社 第九殿 一万宮 国狭槌尊

(くにさつちのみこと、土の神)

文殊菩薩
十万宮 豊斟渟尊

(とよくむねのみこと、雲の神)

普賢菩薩
第十殿 勧請宮 泥土煮尊

(うひぢにのみこと、土の神)

釈迦如来
第十一殿 飛行宮 大戸道尊

(おおとのじ、大地の神)

不動明王
第十二殿 米持宮 面足尊

(おもだるのみこと)

多聞天

 

熊野那智大社の社殿・祭神・本地仏

社殿 祭神 本地仏
上五社 第一殿 瀧宮 大己貴命

(オオナムチ、飛瀧権現)

千手観音
第二殿 證証殿 家津御子大神

(けつみこのおおかみ)

国常立尊

(くにのとこたちのみこと)

阿弥陀如来
第三殿 中御前 御子速玉大神

(はやたまおおかみ)

薬師如来
第四殿 西御前 熊野夫須美大神

(むすびのかみ)

千手観音
第五殿 若宮 天照大神(アマテラス) 十一面観音
中四社 第六殿

八社殿

禅児宮 忍穂耳命

(オシホミミ)

地蔵菩薩
聖宮 瓊々杵尊 (ニニギ) 龍樹菩薩
児宮 彦火火出見尊

(ホオリ、山幸彦)

如意輪観音
子守宮 鵜葺草葺不合命

(ウガヤフキアエズ)

聖観音
下四社 一万宮

十万宮

国狭槌尊

(くにさつち、土の神)

豊斟渟尊

(とよくむね、雲の神)

文殊菩薩

普賢菩薩

米持金剛 泥土煮尊

(うひぢに、土の神)

釈迦如来
飛行夜叉 大戸道尊

(おおとのじ、大地の神)

不動明王
勧請十五所 面足尊

(おもだるのみこと)

釈迦如来

 

まとめ

古代熊野は、死者が集まる地域と考えられていました。山の常世国が合体したため、また海の常世国に最も近い地域と見なされていたためです。さらに、岩がたくさんあり、これらの岩は常世国への入り口と見なされていました。古代熊野の起源は、山、海、岩の3種に分類できるのです。こうした常世国思想やマレビト論がベースになり独自の神道体系が発生したのです。

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