弥生時代に入り、大規模な稲作が始まります。「大規模な」とつけたのは、縄文時代でも栽培程度に稲を作っていたかもしれないからです。川から水を引き、水田を作って稲作を始めたという意味で「大規模」と付けました。
日本書紀では月の神であるツクヨミが昼と夜とに分かれる時、古事記ではツクヨミの弟のスサノオが高天原から出雲に降りる時、それぞれ稲がもたらされたことになっていますが、ここではこれに対する言及は避けます。
大規模稲作による社会の変化
大規模な稲作の開始により何が変わったのでしょうか。「水田の所有者が発生」したのです。最初に水田を作った人は、水田で仕事ができなくなった時、その子供に水田を譲るでしょう。こうして、水田は家族で所有するようになったと考えられます。
さらに、子供は一人だけではありません。所有者が、どんどん変わっていきました。また、水田が広くなるにつれて、一家族だけでは稲作ができなくなったと推定されます。つまり、集落にいる全員がまとまって稲作をおこなうようになったと推定されます。こうして、同じ人を祖先に持つ集落が形成されていきました。
祖霊崇拝の変化と巫女の登場
同じ祖先を持つので、精霊の中の代表、すなわち祖先の代表が居ると考えられました。縄文時代の精霊崇拝(アニミズム)は、集落の発生により祖霊崇拝に変化していきました。精霊の代表を崇めるので、集落も代表を立てるようになりました。これが巫女です。当然ですが、巫女だけが祖先を崇めるのではなく、全員が崇めていました。神事を代表し執り行うのが巫女なのです。
集落が、さらに発展し小さな国にまで発展していきました。これにより、巫女の地位が、どんどん高くなっていったと考えられます。そして、ヒエラルキーも発生したことが容易に推定できます。
区分の発想
精霊を崇拝する縄文人の信仰を円の発想と名づけるならば、集落や小国が崇める祖霊崇拝は区分の発想と言えます。神である精霊の中に代表格が区分されて存在し、この神を崇める人もシャーマンである巫女と一般の人に区分されていったのです。
穢れのお祓い
弥生人は先祖である神に何を祈ったのでしょうか。神の子孫が生きている人間なのだから、もともと人間は清いのです。では、どうして病気になったりするのでしょうか。病気などの不幸の原因を、弥生人は、穢れ(気枯れ)が人間に付くからと考えました。そして穢れを祓えば幸福でいられると信じました。先祖である祖霊に「穢れを落としてくれ。」と祈ったのです。以下に古代人が穢れと見なしたものを列記します。
・死穢 身内が亡くなった後の一定期間
・産穢 女性がお産を終えた後の一定期間
・月時穢 女性の月経期間
・獣死穢 家のまわりで動物が死んだあとの一定期間
海の塩による清め
もともと海洋民族である日本人は、海は穢れを清めてくれる神聖な所と考えました。海から取れる塩が、穢れを祓うためには必須であり、川は大地で起こった不幸を海にまで運ぶものと信じられてました。よく、お盆の時期に川に物を流す風習が全国で見られるのはここからきています。仏教で、精霊流しが説明できるのなら、聞いてみたいものです。
マレ人信仰
また、海洋民族である日本人は、たまに訪れる人を大切にするようになりました。見知らぬ人であっても、祖霊が見守る土地では悪事はできないだろうと言う楽観的な発想です。これをマレ人信仰と呼びます。
マレ人信仰は島国ならではです。北側から様々な民族が流入してきた中国大陸でマレ人信仰を行う民族が居たら、一撃で滅ぼされたでしょう。
<まとめ>
弥生時代、大規模な稲作により平等な社会からヒエラルキーのある社会になりました。この社会は、集落から小国に発展していきました。
これにより円の思想は崩れ区分の発想に変わりました。神の中に区分された代表格の霊(首長霊)が存在すると考えるようになりました。これが区分の発想である祖霊信仰です。そして、崇める側も代表格(シャーマン)の巫女が登場しました。