考え方と歴史

神仏習合について②

こんにちわ!ゆーすけです。(@jinja_hyakka

前回に引き続き
神仏習合の過程は、下記の4段階に分けることができます。前回は神宮寺の出現について説明しました。今回は、若干、順序が前後しますが、中央での仏教の動向と怨霊信仰について説明します。中央での仏教の動向は、「4.密教による本地垂迹説」に関係します。

  1. 神宮寺の出現
  2. 怨霊信仰
  3. 穢れ回避の浄土信仰
  4. 密教による本地垂迹説

国家鎮護思想と奈良仏教

天武天皇が仏教を尊重して以来、中央では先に説明した奈良時代の仏教である南都六宗が鎮護国家思想の下で活躍していました。鎮護国家思想とは、仏の力が国を安定させてくれるという考え方です。

仏教を研究すれば、国家が守られると考えられ、金光明経、仁王経、法華経など国家鎮護に関するお経が重視されました。そして、鎮護国家の考えのもと、聖武天皇により東大寺や国分寺、国分尼寺が建てられました。

このように雑密に負けず南都六宗もどんどん繁栄していったのです。

天皇は仏像に対し、「平穏に国を治められますように」、「朝廷に害を及ぼす有力豪族が出ないように」などと願ったのでしょう。これが、奈良時代中旬ごろ、国内が安定してくると、「すべての民衆が幸福に暮らせるように」と願うようになりました。

こうなると、仏様の役割は、人々を見守る神道の神様の役割と変わらなくなってきました。

こうして、日本人を守る神道の神様は、世界中を見守る仏教の仏様が、日本に仮に現れた権現であると考えるようになりました。この考えを基に神社と寺院の交流が盛んになったのです。

地方では神宮寺の出現により、中央では国家鎮護思想により神仏習合が進行したのです。

神道側は、神宮寺発生で仏教にやりたい放題にやられっぱなしです。が、体系化された仏教を見て、体系化することを学んでいきました。仏教伝来以前はほとんど体系化されていなかった神道ですが、仏教と出会うことで、自身の信仰を体系化し始めたのです。

何がどこまで体系化されたのか、史料が全く残っていないので全くの不明です。が、古事記や日本書紀の神話に見られるように、地方の神様達をうまく体系化していったのではと考えられています。

ところが、奈良時代の終わりの桓武天皇の頃になると、鎮護国家を推し進めた奈良仏教は堕落し腐敗します。仏教で正式に僧尼として認められる場所を戒壇と言いますが、この戒壇は奈良仏教の寺にしか無く、僧尼になるためには奈良仏教の門下に下るしかなかったのです。戒壇という特権を手にしていた奈良仏教集団は、この特権ゆえに驕り高ぶり堕落したのです。

この堕落ぶりを見た桓武天皇は、このままいくと仏教勢力に政権を取られると考え、日本で仏教禁止令を出そうと悩みます。が、その前に最澄を唐に遣わします。

密教の出現、最澄と空海

最澄は、唐で最先端の仏教である密教を学んだのでしょうか。そうではなく時代遅れの随の時代の顕教という教えを学びました。密教も学びましたが、空海ほど真剣に学んではいません。

最澄が、顕教を学んだ理由は、奈良仏教の寺院に対抗し、戒壇の特権を手にしたかったからです。だから奈良仏教と同類の顕教を学んだのです。

最澄は、唐から帰った後、奈良仏教と問答を繰り返し奈良仏教勢を論破しました。その後、朝廷から戒壇が認められ、比叡山に延暦寺を建立したのです。最澄に論破されたことで奈良仏教は廃れていきました。

空海は日本で雑密を学びました。が、雑密は、南都六宗の大乗仏教ように普遍性や抽象性を供えて体系化されていませんでした。そこで、雑密を土台とする大乗仏教に匹敵する大乗的密教を模索しました。

遣唐使として唐に渡り、恵果と出会いました。恵果は大日経、金剛頂経を基に、雑密と大乗仏教を融合させ、呪術から宇宙的価値までを説明する宗教体系を構築し、これを図式化した胎蔵・金剛曼荼羅を作るなど、大乗真言密教を大成していました。空海は、これを学んで帰国し、高野山に金剛峯寺を建立しました。

最澄とも勢力争いをしますが、空海はしたたかで、最澄が権力の座にいる間、朝廷には近づきませんでした。

最澄が亡くなった後、空海は朝廷に近づき、淳和天皇の庇護のもと、神宮寺を統轄していきました。各地の神宮寺を真言密教の配下とした空海のおかげで、朝廷は各地の領主たちの心をつなぎとめることが出来たのです。

この真言密教と、少し遅れて最澄の弟子の円仁と円珍により完成された天台密教が神道と習合していくことになります。

御霊信仰について

神仏習合は段階を経て進んでいきます。第一段階は地方での神宮寺の出現です。第二段階は怨霊信仰です。第三段階は浄土信仰、第四段目は鎮護国家思想や密教伝来に端を発する本地垂迹説です。

古代より人の霊魂を祀ることは神道により行われました。神道では、死者の霊魂は、常世国にいく(過去に死者となった共同体の祖霊の群れと一体になる)とされ、特定の個人が霊となって出現することはありません。

ところが、奈良時代中旬、朝廷内部では「権力抗争で敗北して亡くなった者の霊は恨みを持って現れる」と考えはじめました。奈良時代後半から平安時代上旬になると、朝廷内部だけでなく庶民を含む様々な人々により、朝廷に反感を持った人の怨霊が祀られるようになりました。

朝廷では、怨霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)が盛んに行われるようになります。

御霊会では、御霊を仏と見立て、その前で経を説き、無実の罪で亡くなった者達を鎮魂し、成仏しきれない霊魂が密教の神々になったと説いたのです。次いで、歌舞、馳射(きしゃ)、相撲などの行事を行い、怨霊を慰め、御霊会に集まった様々な身分の人々の日頃のうさを晴らしました。

神身離脱による神宮寺建立は、地方の領主たちの苦難解決と見なせます。御霊信仰は、朝廷による圧迫に苦しんだ人達による神道と密教を合わせた苦難の解決です。すなわち、御霊会や御霊信仰は、神仏習合の一形態と言えます。

有名な御霊信仰を見ていきましょう。

菅原道真公

「北野天神縁起」などが伝えるところによると、道真没後、間もないある夜、道真の霊魂が道真の仏教の師である尊意の住む比叡山の一房に現れ、こう告げました。

「わたしは梵天・帝釈天の許しを得たので、神祇がいさめることもありますまい。洛中に入り、王城に近づき、配流の辛さを述べ、怨みを復讐で晴らそうと思っております。ところが、あなたは法験に長じた方なので、わたしを調伏すべしとの勅宣が下るでしょう。しかし、あなたとわたしは生前、深い師弟の契で結ばれているのですから、どうかその勅宣を返上して下さい。」

これに対し、尊意は、これに次のように答えます。

「師弟の契りは一世限りのものではありませんから、眼を抜かれても断りましょう。しかし、この地上はみな王土ですから、勅宣が三度に及んだときは、断わるわけにはいかないでしよう。」

これを聞いた道真は顔色を変え、尊意のすすめた柘榴を口に含み、その種を妻戸に吐きかけて、姿を消しました。このとき道真の怒りを含んだ柘榴の種は炎となり、妻戸を焼き焦がしてしまいました。

この説話で注目したいのは、道真の怨霊が、自身を仏教の神様の梵天や帝釈天と日本の神様である神祇から許された者と言う点です。つまり、仏教の神様と日本の神様が同格であり、神仏が習合しているのです。

平将門公

平将門は、935年、関東諸国の国府を武力で制圧し、王権に反旗を翻しました。翌年、上野の国府に進駐した将門は、そこで新皇としての即位式を行いました。

「将門記」には、以下のように記されています。

「(将門は)府を領して庁に入り、四門の陣を固め、かつ諸国の除目(じもく)を放つ。時に、一昌伎(かんなぎ)ありて云えらく、八幡大菩薩の使と攅(くちばし)る。朕が位を蔭子(おんし)平将門に授け奉る。その位記は、左大臣(右大臣の間違い)正二位菅原朝臣の霊魂表(ひょう)すらく、右八幡大菩薩、八万の軍を起して、朕が位を授け奉らん。今すべからく三十二相の音楽をもて、早くこれを迎え奉るべしといえり。 ここに将門、頂に捧げて再拝す。いわんや四の陣を挙りて立ちて歓び、数千しかしながら伏し拝す。ここに自ら製して誼号(いみな)を奏す。将門を名けて新皇と曰う。」

つまり、将門は、上野国府を占領後、役所に入り、東西南北の門の警固を整え、国府の役人を任命しました。そのとき、神がかりした一人の巫女が八幡大菩薩の使者と名乗り、託宣をくちばしったのです。「朕はみずからの位を蔭子である将門に与える。その位記(辞令)は菅原道真の霊魂が書いた。八幡大菩薩が八万の軍勢を催して、将門に位を授けようとしているのだから、三十二相の音楽を奏して迎えるように」と。将門は、これを受け、国庁の四方を固めた数千の人々は歓声をあげて拝伏しました。・・・・将門はみずからの称号を定め、新皇としました。

ここでも、八幡大菩薩が将門に新皇の位を授けている事、これを受けて御霊の代表格の菅原道真が位記を書いていることが重要です。菅原道真は、将門の乱の36年前に亡くなっています。が、御霊として祀られ、観自在天という神様に転生したと言われていました。

八幡神は、もともと九州の宇佐地方の土着信仰の神様でした。奈良・平安の時代を経て外敵に対する防護神に変貌し、応神天皇の祭神となり王権と深いつながりを持つようになりました。最も早い神仏習合神として知られ、八幡大菩薩の称号を持っています。また、「三十二相の音楽」とは、仏事の音楽のことです。

このように将門の即位式には、神仏習合の痕跡がたくさん見られます。

御霊信仰をもたらした社会背景

奈良時代から平安時代にかけて、とにかく御霊が多いのです。御霊とは朝廷に恨みを持った人の霊です。

このことを深く洞察してみましょう。当時、朝廷に反感を持つ人々がたくさん居たと推定できます。朝廷に反感を持つ人たちは、政争に負け非業の死を遂げた菅原道真や平将門、藤原広嗣などを強く支持しました。そして、怨恨を持って亡くなった死者が御霊となり、天災などをもたらし、世の中を混乱させていると吹聴し、朝廷へのうさを晴らしたわけです。

鎌倉時代以降、幕府による政治が行われます。幕府に恨みを持って死んだ人はたくさんいるはずですが、何故か御霊にはなっていません。これは、神様の力より武力を重視したからなのかもしれません。

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