考え方と歴史

松前健著「日本の神々」を読む イザナギとイザナミ②

古代熊野との関連

平安以降、熊野三所のムスビの神をイザナミ、速玉をイザナギ、ケツミコ神をスサノオに比定しています。この比定は後世の物です。が、ムスビをイザナミとしたのは、熊野では古くから生成の女神・ムスビの崇拝が盛んだったためで、ムスビの神を祀る本宮大社や速玉を祀る速玉大社には、今もムスビの女神の渡御があります。

熊野三所神とは、蕃殖、生成の母神である山の神・ムスビと、その夫の速玉、両者の愛他で生まれた樹木の霊・ケツミコ神で、山の神の女神が、木種(こだね)を播く、つまり子種を播くと語られる伝承と共通する観想に由来します。

古代熊野は、木がたくさんあったので、造船業が盛んでした。熊野のイザナミ信仰は、熊野の船に乗って出漁した海人が淡路から取り入れたものと推定されます。イザナミの墓と言われている有馬の花窟(はなのいわや)神陵の大岩壁には、女陰の形をした窪みがあります。海岸に面した場所にあり、いかにも海人の祭所のように見えます。

また、古代熊野は山が多く、それぞれの山々で山頂にある常世国の信仰が繁栄しましたが、これらが融合し、熊野自体が他界への入り口と考えられていました。海岸にも奇岩が多く、奇岩が多い海岸を経て海の彼方にある常世国と繋がっているとも考えられていました。海の彼方や山の上にある死の国への入り口だったのです。

先に持ち出した花窟神陵も海の彼方の常世国への入り口でありイザナミが行った黄泉の国に繋がっていると信じられていたのでしょう。イザナミの黄泉の国については後述します。

出雲の話を再び持ち出しますが、有馬の花窟神陵以外にも、古事記にはイザナミの神陵として伯耆と出雲の国境にある比婆山があります。比婆山も伊賦夜坂もイザナミの死と結びついており、このことは出雲も熊野同様に死や冥府と関連していると考えられていたことを示しています。

根の国と黄泉の国の違い

ニュージーランドの夜の女神・ヒネ・ヌイ・テポが、自殺して冥府の女神となった時、冥府まで訪ねてくれた夫・タネに対し、「あなたは現世で人を増やしなさい。私は冥府で人を闇と死に引き込みます。」と言いました。」この神話は、イザナギ・イザナミの黄泉平坂の生死問答と似ています。後に述べますが、この話はイザナギ・イザナミの南方起源の根拠の一つとなっています。

黄泉国の記事は、畿内にタマフリ呪術や大陸の霊鬼など、色々な要素が含まれ、かなりの変貌を遂げています。このような変貌を含まない記事が「鎮火祭祝詞(ほしずのまつりののりと)」に見られます。

火の神・ホムスビを生む時、イザナミが岩窟に隠れたのを、夫のイザナギが禁制を犯し、覗いてしまいます。イザナミは恥じて下津国に行ってしまったのです。この話は豊玉姫がウガヤフキアエズを生む時の話などにも見られる他界女房型の説話です。

話しは変わって、イザナミの黄泉の国での姿と後世の御霊信仰には、いくつかの共通点があります。

悲劇の女主人公・井上内親王、藤原道真などの怨霊は、雷神や蛇神となって祟り、冥府の悪霊の統御神となりました。

イザナミの死体からは多くの雷神が生まれ、冥府に行ったイザナミは黄泉醜女(よもつしこめ)など冥府の悪霊の統御神になります。

つまり、古事記が編集された頃、すでに怨霊信仰が発生していたのです。

同じ冥府でも、大国主が行った根の国は、陰湿ではなく、宮殿があり、スセリヒメのような美女も居て、現世と変わらない明るい世界です。イザナミが行った黄泉の国とは対照的です。

この相違は、大国主の根の国が出雲地方の他界信仰をそのまま残しているのに対し、イザナミの黄泉の国は怨霊信仰や疫病などの陰湿な影響を受けてしまったからと考えられます。

禊祓い神話

黄泉の国から帰ったイザナギが、九州・日向の橘の小門の阿波岐原で禊をします。だけど、イザナギの崇拝圏は、淡路、播磨、摂津、大坂、紀伊、大和、伊勢、近江などで九州は含まれません。崇拝が行われなかった場所に神話が生まれるのはあり得ない事です。

イザナギの本来の禊の地は、国生みをした淡路島周辺で、これが後に九州・日向の阿波岐原にされたと推定されます。

日向の橘の小門は、神功皇后の託宣に出てくる住吉三神(ツツノオ)の故郷です。日本書紀によれば、ツツノオは皇后に憑り移り、「日向の橘の小門の水底にて、水葉も稚やかに出でたる神」と名乗っています。

この日向の橘の小門は、巫女が神懸りしたときに発する神話的な名称で、実在の地名ではありません。日向は、朝日や夕日が照らす場所を指し、橘の小門は「橘が実る場所の海峡」を意味します。

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