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【必読】一度は知っておきたい!瀬織津姫様と神様の本質・解説・役割分析 -田村麻呂編-

こんにちわ!ゆーすけです。(@jinja_hyakka

この瀬織津姫を祀る全国の神社の由来を調べ、大きく以下のように分類しました。では、1. 2. 3.について説明しました。

  1. 記紀神話に関係する神様
  2. 川の神様
  3. 東北・遠野物語に関係する神様
  4. 田村麻呂を助けた神様

今回は、4.田村麻呂を助けた神様について説明します。

蝦夷討伐について

蝦夷討伐では瀬織津姫がたくさん登場します。東北での瀬織津姫を理解するためには、まず蝦夷討伐について知る必要があります。

8世紀中旬、朝廷が東北の蝦夷を支配しようとし、蝦夷と朝廷が対立するようになります。これ以前は、蝦夷と朝廷は経済的な交流などをおこない、あまり対立はしていませんでした。

宝亀5年(774年)~弘仁2年(811年)、按察使・大伴駿河麻呂に蝦狄征討が命じられ、三十八年戦争と呼ばれる蝦夷征討の時代になります。この三十八年戦争は以下の4期に分けられます。

第1期は、鎮守将軍により、東北にある朝廷の城に侵攻した蝦夷を征討する局地戦が行われました。778年頃、蝦夷の反乱は一旦収束します。

第2期は、780年~781年で、伊治呰麻呂(これはり/これはるのあざまろ)の乱、宝亀の乱と呼ばれます。呰麻呂は、伊治城で紀広純らを殺害し、蝦夷は多賀城を襲撃、略奪、放火しました。藤原小黒麻呂が征東大使となり、781年頃、反乱は一旦収束します。

第3期は、789年~803年です。征東大使・紀古佐美の大規模蝦夷征討から志波城築城までを言います。

紀古佐美は蝦夷討伐のため軍を進めましたが、多数の損害を出し敗北します。これを受け、784年、大伴家持が征東将軍、大伴弟麻呂が征東副将軍になります。征東将軍は、征夷大使と改名され、794年、征夷大使・大伴弟麻呂、征夷副使・坂上田村麻呂により蝦夷討伐が行われました。ここで、田村麻呂は副将軍にすぎませんでしたが史料に残っているので、大きく活躍したと推定されます。

801年、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、蝦夷討伏をしました。『日本紀略』には、以下の事が記されています。

  • 阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)が五百余人を率いて降伏したこと
  • 田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと
  • 群臣が反対し阿弖流為と母礼が河内国で処刑されたこと

第4期は811年の文室綿麻呂による征討を言います。

以後、組織だった蝦夷征討は停止し、朝廷の支配下に入った蝦夷の反乱が起こるのみです。夷俘、俘囚の反乱は、元慶の乱、天慶の乱などがあります。

その後の前九年の役(安倍氏の反乱)、後三年の役(清原氏の反乱)は、元蝦夷の下級貴族の反乱と見なされています。

大伴家持と福島の蝦夷平定

蝦夷討伐に関連する瀬織津姫の伝承について、(2)にも書きましたが、福島県の宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)の旧記にはこうあります。

光仁天皇の時代、東北では蝦夷がはびこり朝廷を困らせていました。朝廷は天応元年(781年)、陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を向かわせましたが効果がなく、翌年、延暦元年(782年)、桓武天皇は、大伴家持を陸奥出羽按察使・鎮守府将軍に任命して向かわせました。

蝦夷の勢力は強健だったので、家持は高旗山に登り、神々に祈願すると、神霊(瀬織津姫)が現れ、安積の山々を指し示しました。

霊験を得た家持は軍を進め、蝦夷平定を成し遂げました。家持は、神恩に感謝し、高旗山の山頂に社殿・宇奈己呂和気神社奥宮を建立しました。その後、社殿は荒廃し、延暦3年(784年)、現在の鎮座地・山崎に遷座され、相殿神として八幡神が合祀されました。

このように、蝦夷の被害を”祓う”軍神のような瀬織津姫が描かれています。

鈴鹿御前・坂上田村麻呂と瀬織津姫について

三重県鈴鹿市の片山神社は、鈴鹿峠の三子山を神奈備とし、瀬織津姫、伊吹戸主、速佐須良姫の三柱が祀られていました。火災が繰り返されるので、永仁5年(1297年)、現在の地に遷座され、倭姫命を祀る鈴鹿社と4柱が合祀されました。

この片山神社は、鈴鹿御前を祀る鈴鹿権現として有名です。

鈴鹿御前、鈴鹿権現

鈴鹿御前(すずかごぜん)は、伊勢国と近江国の境にある鈴鹿峠・鈴鹿山に住んでいたと伝説上の女性です。その伝説とは、次のような内容です。

桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼が現れ、鈴鹿峠を往来する人々を襲いました。このため、貢物が届かず、帝は坂上田村麻呂に大嶽丸討伐を命じました。

田村麻呂は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へ向かいました。大嶽丸は、峰の黒雲に姿を隠し、暴風雨、雷電、火の雨で田村麻呂軍を数年に渡って足止めしました。

鈴鹿山には、天から降りた鈴鹿御前という天女が住んでいました。大嶽丸は、鈴鹿御前の美しさに、結婚したいと思い、童子や公家などに化けて、夜な夜な鈴鹿御前の館を尋ねますが、思いは叶いません。

足止めされていた田村麻呂が神仏に祈願しすると、老人が現れ「大嶽丸を討伐するため鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられました。

田村麻呂は、三万騎の軍を都へ帰し、一人で鈴鹿山を進みました。すると美しい女性が現れて、誘われるまま館へ入り、閨で契りを交わしました。女性は「私は鈴鹿山の鬼を討伐する貴方を助けるため、天より来ました。私が策略を図り大嶽丸を討伐しましょう」と言い、田村麻呂は助力を得ました。この女性が鈴鹿御前でした。

田村麻呂は、鈴鹿御前の案内で大嶽丸の棲む鈴鹿山の鬼の城に辿り着きます。が、鈴鹿御前から「大嶽丸は三明の剣に守られている間は倒せない」と告げられました。鈴鹿御前の館に一旦戻ると、その夜、童子に変化した大嶽丸が来ました。

鈴鹿御前が、大嶽丸に「田村麻呂という男が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」と言い、大嶽丸から三明の剣のうち大通連と小通連を手に入れました。

次の夜も館に来た大嶽丸は、待ち構えていた田村麻呂と激戦を繰り広げます。

大嶽丸は身丈十丈の鬼となり、光る眼で田村麻呂を睨み、天地を響かせ、剣や矛を投げつけます。田村麻呂は信仰する千手観音と毘沙門天の力で払い落としました。

大嶽丸が、数千もの鬼に分身し襲い掛かります。田村麻呂が、神通の矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分かれ、数千もの鬼の顔をすべて射ました。そして、大嶽丸は、田村麻呂が投げた騒速(そはや)という太刀で首を落とされました。

大嶽丸の首は都の帝のもとに送られ、田村麻呂は伊賀国で鈴鹿御前と暮らしました。

大嶽丸は魂魄となって天竺に戻り、三明の剣のうち顕明連の力で復活し、陸奥国霧山に籠って日本を乱し始めました。田村麻呂と鈴鹿御前は陸奥へと向かい討伐します。

大嶽丸は霧山に難攻不落の城を築いていました。田村麻呂は城に侵入し、そこに大嶽丸が戻ってきて激戦となり、田村麻呂によって再び首を落とされました。大嶽丸の首は舞い上がり、田村麻呂の兜に食らいつきます。兜を重ねて被っていたので、大嶽丸の首はそのまま死にました。

御伽草子にもなった鈴鹿御前伝説は、大きく2種類に分けられます。

1つ目は、鈴鹿御前と坂上田村麻呂が戦いを経て結婚し、共に鬼退治をする「鈴鹿系」(古写本系)です。もう1つは、田村麻呂を助けるため、天から下った鈴鹿御前が田村丸と結婚し、共に鬼退治をする「田村系」(流布本系)です。

祇園祭・鈴鹿山

京都祇園祭の山鉾(やまぼこ)のひとつの「鈴鹿山」は、鈴鹿御前による鈴鹿山の鬼退治伝承に由来しています。鈴鹿権現(瀬織津姫尊)を祀り、山鉾では伝承で登場する姿(金の烏帽子をかぶり大長刀を持つ)をしています。

東北の鈴鹿御前伝説

東北には田村麻呂を助けた鈴鹿御前の伝説がたくさんあります。

岩手山縁起

田村麻呂が岩鷲大夫権現(岩鷲山大権現)として岩手山に現れ、山頂にある鬼ヶ城に棲む鬼・大武丸を退治しました。烏帽子岳(乳頭山)は田村麻呂の妻・立烏帽子神女が、姫神山は2人の娘・松林姫が現れた場所とされています。

遠野三山の伝説

坂上田村麻呂が、東征の時、東北に国津神の子孫である玉山立烏帽子姫という女神が居ました。女神はとても美しく、蝦夷の長・大岳丸に言い寄られましたが、応じませんでした。

田村麻呂は東北に来た時、立烏帽子姫の案内で蝦夷を討伐し、頭領・大岳丸を岩手山で討ち取ったのです。

立烏帽子姫は、田村麻呂と夫婦になり、田村義道と松林姫を産んだそうです。田村義道は安倍氏の祖先で、松林姫はお石、お六、お初の三女を産みました。お石は速佐須良姫の御霊代を奉じ石上山に登り、お六は速秋津姫の御霊代を奉じ六角牛に登り、お初は瀬織津姫を奉じ早池峯に登りました。

宮城県の田村神社は、鈴鹿神女と坂上田村麻呂の夫婦を祀っています。田村麻呂が、東征の際、悪路王、赤頭という妖怪を鈴鹿御前の助けをかりて討伐したので、二人を祀ったのです。

ざっくりと考えると、坂野上田村麻呂は、軍神・瀬織津姫こと鈴鹿御前を信仰していたのでしょう。

安倍宗任について

安倍宗任(あべのむねとう)は、朝廷に従うようになった蝦夷の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子(三男)で、前九年の役で父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦い、敗北しました。一命はとりとめますが、福岡の宗像氏のもとに流されてしまいます。そして安倍晋三首相の祖先であったりします。

『綾織村郷土誌』や伊豆神社由緒では、前九年の役で敗れた安倍宗任の妻・おないが、おいし、おろく、おはつの三人の娘を連れ、遠野に隠れたという伝説、おはつが早池峰大神(瀬織津姫命)と合祀された、また母親(宗任の妻・おない)は、死後、伊豆権現(瀬織津姫命)に「合祀」されたとする伝説が語られています。

宗任の妻子は、人々の難産の治療をし、人命を助けたので祀られたそうです。

まとめ

瀬織津姫は、蝦夷を討伐した軍神として東北に現れました。敵がもたらす災いを祓う意味なのかもしれません。

かなり目覚ましい活躍をしたのでしょう。軍神・瀬織津姫は坂野上田村麻呂の妻と同一視されます。このため、鈴鹿権現が発生し、京都の祇園祭の山鉾にもなっています。

田村麻呂の伝説が語り継がれるうちに、軍神と山を信仰する神奈備信仰や三人娘に対する信仰が識別できなくなり、さまざまな伝承となっていったのでしょう。

その他

1~4に分類できないものを羅列します。

河童伝承

川に住む女神が瀬織津姫なら、川に住む男神が居るはずでしょう。ハヤアキツヒコとハヤアキツヒメのように、この時代の神様は男女で働きます。福岡県の潮斎(しおい)神社は、祭神が瀬織津彦姫神となっています。この瀬織津彦とは、一体、どのような神様なのでしょうか。

日本全国の川に居る、超人的な力を持つ存在が居ることを思い出してください。ずばり河童です。

福岡県の瀬成神社は河童伝承があります。この神社は豊宇気姫、瀬織津姫、速開津姫の三柱を祀っています。村の子供にトヨウケヒメの神託がくだり、トヨウケヒメを祀るようになりました。

その後、宣化天皇の御代に、鷹羽の巫子伊智女が、神勅を受けます。村は小川が氾濫するので、水の霊神を祀れとの、お告げがあつたのです。村人は神勅に従い、瀬織津姫神と速秋津姫神を、豊宇気姫神の社に合祀しました。そして社号を、瀬成神社と改めました。

この瀬成神社の河童伝説は以下の通りです。

昔、瀬成様の前にある中元寺川に河童が住んでいました。ある日、河童が、「今夜は大雨が降り、大事になるから早く山に逃げてくれ」と民家を一軒一軒まわって言いました。

河童が言ッったように、大雨が降り、川が氾濫し、中元寺の里は水に浸かってしまいました。が、河童の知らせにより、村人は一人も災難に会いませんでした。これを聞いた瀬成様は河童を大いに誉めました。また、村人からも可愛がられました。

ところが、河童は思いあがって、田畑を荒らしたり、子供を川に引きずりこんだりして、いたずらばかりしました。このことを聞いた瀬成様は怒って、厳しく叱りました。河童は堪えたらしく、石の詫び証文を書いて瀬成様に奉納しました。

瀬織津姫は、河童と対になっているのかもしれません。

ホツマツタエについて

ホツマツタエでは、瀬織津姫とアマテル神が夫婦になっています。確かにアマテラス信仰のもとになっている対馬や尾張のアマテル神は男神です。

だけど、ホツマツタエは、神話が少なく、国家の登場が唐突です。おそらく国家があって当然の時代に書かれたのでしょう。西洋の聖書は国家が登場するまでに、民族の成り立ちや王族の成り立ちを記載しています。天皇の権威を説いた古事記でさえ、スサノオとオオクニヌシが国を作るまでに様々な神話があります。これらと比較すると古事記以前の書物としては内容が不自然なのです。

神社建立時の祓い神

あまり、ありきたりな事を言っていても退屈されるでしょうから、ここで1つの仮説を提唱します。仮説とは「神社建立時の祓い神」です。

長野県の尾片瀬神社に関して、「御射山神戸区史」小林浦光・伊藤勘編には、次のように書いてあります。

『御射山の山道に添った西南に傾斜している一角を片瀬と称しており、その裾に近くにある数本の古木から成る小さな森があります。この森が片瀬明神です。

言い伝えによれば、片瀬明神が旧道の地にあった時、旅人が馬に乗ってこの場所を通れば、必ず馬が荒ばれ、人を跳ね落としたそうです。人々は恐れ、これは片瀬明神の祟りと言っていました。偶然。諏訪の殿様が、「そんな馬鹿な事があるものか」といって、乗馬のまま通り、不意に乗馬が跳ね狂い、殿様を振り落としてしまいました。

そして、殿様も言い伝えが本当であると悟り、今後、「こんな事件が起きるようでは旅人も不安であるから、別地に祀り換えよ」と言い、現在の地に移しました。

片瀬明神はハラエドの大神の瀬織津姫を祀ったものです。祝詞に唱えられているようにお祓いの神であり、神様をお祀りする時は、必ずこの神様を拝んで始めるのである。』

最後の一節で、『新たに神社を建てる場合、建立する土地をお祓いをするため、瀬織津姫を拝んで始める。』と書いています。もともと、神社は、天武天皇が仏教寺院に対抗し、磐座や神奈備となっている森に純和風の建物が建立された祭祀場です。

ですが、洪水や崖崩れなどの災害で建物が何回も崩れる時など、都合の良い場所に新たに建立する場合があります。このような事例は奥宮や山宮より里宮に多いです。

また、八幡神社や春日神社など瀬織津姫とは全く関係のない神社に、摂社や祓戸社として瀬織津姫が祀られていることがあります。瀬織津姫を神社建立時の祓い神で、神社建立の地を清めた瀬織津姫がそのまま残ったと考えると、何の問題もありません。

これで終わりますが、日本の西から東までの瀬織津姫の伝承を見ると、西は日本神話と結びつけられ、東は蝦夷討伐に結び付けられていることがわかります。古代の瀬織津姫の姿を想像できましたでしょうか。

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