考え方と歴史

松前健著「日本の神々」を読む・(2)スサノオと出雲神話

松前健が考えるスサノオ観・民衆の神としてのスサノオ

「出雲国風土記」に描かれているスサノオは平和的な神様として描かれています。意宇郡安来郷(おうぐんやすきごう)では、壁を立て廻らし「吾が御心おすけくなりぬ」といったり、大原郡佐世郷では佐世の木の葉をかざして踊ったり、御室山では御室を造って宿ったりと、平凡で素朴な神様です。

広いスサノオの信仰圏

延喜式神名長では出雲国でスサノオを祀っている神社は飯石郡須佐豪の須佐神社、出雲部の阿須技神社の摂社・須佐表神社だけです。が、スサノオは衝杵等乎而留比古(つききとをしるひこの)、磐坂日子、都留支日子(つるぎひこ)、国忍別(くにおしわけ)、八野若日女(やのわかひめ)、和加須世理比売命(わかすせりひめ)、青幡佐久佐丁壮命(:あおはたさくさひこのみこと)の七柱の親類として語られています。

これらの神々の伝承がある地域は、意宇郡、島根郡、秋鹿郡、大原郡、飯石郡、神門郡と出雲全域にわたっており、これにスサノオが活躍した地域を含めると、出雲の神々の崇拝圏はさらに広がります。出雲においては、熊野大神、佐太大神、野城大神などの崇拝圏はスサノオのものにははるかに及びません。

また出雲以外では、備後深津郡に素戔能表神社、紀伊在田郡に須佐神社があり、866年に書かれた「三代実録」には播磨や隠岐の素戔嗚神が見られます。

このように見ると、スサノオ崇拝は、出雲をはじめ、紀伊、摂津、播磨、吉備など、紀伊半島から大坂、瀬戸内で行われており、さらに隠岐でも行われていたことがわかります。これほど広大な崇拝圏を持っていた神様は、オオナムチやスクナヒコナなどでありますが、いずれも国津神なのです。

出雲系の神々は、一氏族に限定されず、超地域性・超氏族性・民衆性を持っており、「出雲教」ともいうべき古代の宗教活動が推測されるのです。

スサノオの民衆性

記紀では、スサノオは天下り以降、出雲だけでなく船で新羅や紀伊にわたって活躍していますが、これらは物凄く民間的な物語になっています。日本書紀の一書では、高天原追放の際、雨が降り続き、スサノオは青草を結び合わせて蓑笠とし、宿をとある神様に乞うたところ拒まれます。スサノオは激しい風雨の中苦しみながら下界に降りました。

その後世間では、他人の家の屋内に蓑笠をつけて立ち入ることや束草を負って他人の家に入ることが忌み嫌われるようになり、これを犯すと必ずお祓いがされるようになりました。

日本の古い習俗では、蓑笠を付け、青草をつけた姿は神の姿と信じられていました。秋田のナマハゲがつけるケラミノなども神の姿であり、スサノオの宿を乞う話もこのような民族行事を踏まえたものなのです。

古事記に記されているスサノオのオオゲツヒメ殺しの神話では、スサノオが高天原から下る途中、穀物の女神・オオゲツヒメに食物を乞い、女神が陰で口や尻からいろいろな食物を取り出すのを見ると、汚れたものを食わせる気かと怒り切り殺します。これは古代の民間の祭りの思想で、神を迎える時、無礼な接待や不浄な饗応しかとなかった巫女が神の怒りで死ぬ話なのです。

日本書紀の一書には、スサノオが伊佐猛らとともに、多くの木種を植え、紀州から大八洲に樹木を普及させたと伝えています。山の神は山の樹木を管理し、その豊穣を掌ります。新潟県や京都府丹波などで春や秋の神祭りの日に、人々は山の神の種蒔きなので山に入るのを慎みますが、これに関連していると推定されます。

八岐大蛇退治は、よくある大蛇の人身御供譚であり、主人公のスサノオは民間の英雄となっており、特定の貴族の神とは思えません。この話は、民間に流布していた勇者伝説であり、スサノオの民衆性を表すものとなっています。

八岐大蛇退治

八岐大蛇神話は、不思議なことに出雲風土記には出てきません。八岐大蛇は斐伊川上流の鳥上山に住み、鳥上山は現代の船通山であり斐伊川の源泉です。

この大蛇退治の話は、出雲で盛んだった龍蛇崇拝と農耕が結びっいた信仰から出ています。櫛稲田姫は神秘な稲田の神と考えられています。また、山陰地方の田の神サンバイも蛇体と伝えられ、田植歌には、稲の女神イナヅルヒメの婚姻が歌われています。田畑の守り神である荒神森・荒神祠にも、神木に蛇の形のワラ縄を巻き付け、ひれに粥や麹、酒などが供えられます。

蛇は脱皮をおこない、脱皮は穢れを祓う禊と同一視され、神道では蛇は神聖な生物と見なされています。この蛇が退治されるのだから、この話は少しおかしいです。

八岐大蛇と櫛稲田姫との関係は、怪物と人身御供ではなく、蛇体の水の神と稲田の女神の夫婦だったのです。八岐大蛇が祀られていたことは、日本書紀にスサノオが八岐大蛇に向かって「汝は畏き神なり、敢てみあわせざらむや」といっている事からも分かります。

スサノオのような新しい英雄神が崇拝されるようになると、かつて崇拝された蛇神は英雄神に退治される邪悪な怪物とされ、八岐大蛇の妻であった櫛稲田姫は人身御供となってしまったのです。

さらに、この謎を解くきっかけは、大蛇を退治した際に大蛇の身体から現れたクサナギの剣にあります。斐伊川上流でには砂鉄が豊富にあり、古代の鍛冶部はここでタタラ製鉄が行われていました。

砂鉄を採る方法る際、川を利用し砂鉄を含んだ花崗岩を下流に流し、砂鉄分だけを取ります。これをかんな流しと言い、水を大量に必要とするので鍛冶部の人々も川上の水神・蛇神を報じていたと思われます。

その後、斐伊川流域は鉄製の剣の一大産地となり、農耕が廃れてしまったのです。こうして蛇神よりスサノオが重要視されたとも考えられます。かんな流しの時に見られる鉄分を多く含み赤く濁った川は大蛇の血を彷彿させます。農耕の水から大蛇の血の流れに変わってしまったのかもしれません。

まとめ

以上のように、スサノオは多くの民衆から深く信仰されていました。この信仰は朝廷から見ると脅威に見えたのです。そこで記紀神話でスサノオを強力で脅威的な存在として描いたわけです。

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