こんにちわ!ゆーすけです。(@jinja_hyakka)
今回は消された神:瀬織津姫についてまとめました!!!
瀬織津姫は、記紀神話に登場しない神様なので権力者からその存在を消されたのではないかとネットで話題を呼んでいます。が、実際には全国で祀られていたりします。
この瀬織津姫を祀る全国の神社の由来を調べ、大きく以下のように分類しました。
- 記紀神話に関係する神様
- 川の神様
- 東北・遠野物語に関係する神様
- 田村麻呂を助けた神様
上記の分類に従い、瀬織津姫の本質に迫ります。その前に、一般的な瀬織津姫の解説をします。
CONTENTS
祓戸四神としての瀬織津姫
瀬織津姫(せおりつひめ)は祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一柱です。祓戸は、祓を行う場所で、そこに祀られる神ということです。
古事記では、イザナギが筑紫の日向の橘の小戸・阿波岐原で黄泉の国に行ったことで付いた穢れを祓ったときに生まれた神のことを祓戸大神と呼びます。が禍津日神(マガツヒ)、直毘神(ナオビ)、少童三神(ワダツミ三神)、住吉三神(底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神)、三貴子(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)は祓戸大神ではありません。
古事記に瀬織津姫は登場していませんが、延喜式8巻の六月晦大祓祝詞には記されています。この祝詞によれば、瀬織津比売、速開都比売(はやあきつひめ)、気吹戸主(いぶきどぬし)、速佐須良比売(はやさすらひめ)の祓戸四神の禊祓での役割が記されています。
瀬織津比売は罪穢れを川から海へ流し、速開都比売は海の底で待ち構えて、流れてきた罪穢を飲み込み、気吹戸主は罪穢れを飲み込んだ速開津媛命を根の国に吹き飛ばし、速佐須良比売は根の国に来た罪穢れを浄化します。
日本各地に祓戸神社、波羅伊門神社と称する神社がたくさんあり、いずれも祓戸四神を祀っています。
アマテラスの荒魂
現在の神道では、瀬織津姫はアマテラスの荒魂とされています。
大分県の闇無浜神社(豐日別宮・中之御殿座)には、第十代崇神天皇の御代に豊日別国魂神と瀬織津姫神が祀られました。豐日別國魂神(とよひわけくにたまのかみ)は豐国の国魂であり、瀬織津媛神(せおりつひめのかみ)は大日孁貴(おほひるめのむち)ことアマテラスの荒魂です。
蛇足ですが、闇無浜神社の豊日別宮と祇園八坂宮の間の後方に、神霊垂迹(この世に姿を現わす)といわれる霊烏石(れいうせき)があり、これは瀬織津姫神が白い烏の姿で降りてきたという神聖な石です。
伊勢神宮をはじめ、大阪市の御霊神社、山口大神宮、徳島県の朝宮神社などでアマテラスの荒魂としての瀬織津姫が祀られています。
記紀神話に関係する神様
記紀神話に関係する瀬織津姫の伝承は、主に九州地方の宮崎県に残っています。
速開都比売の代替(宮崎県江田神社)
宮崎県の江田神社は、イザナギが禊をおこなった日向の橘の小戸・阿波岐原であると伝えられています。江田神社の近くにある「みそぎ池」が禊を行った地であり、かつては入江でしたが、後に開墾され「江田」と呼ばれるようになったとのことです。
この江田神社の祭神は公式にはイザナギとイザナミです。が、当社の看板には、「伊邪那岐神、伊邪那美神、速秋津彦神、瀬織津咲神」と記されています。瀬織津咲神とは、セオリツヒメとのことだそうです。
ハヤアキツヒコと対をなすのは、海の中で罪穢れを食べてしまうハヤアキツヒメですが、何故か罪穢れを祓う瀬織津姫になっています。ハヤアキツヒメの代替なのでしょうか・・・。
宮崎県速川神社の由来
宮崎県早川神社にまつわる伝説では、瀬織津姫が邇邇芸命(ニニギ)のお供となっています。古事記ではニニギの天降りに、天児屋命(アメノコヤネ)、布刀玉命(フトダマ)、天宇受売命(アメノウズメ)、伊斯許理度売命(イシコリトベ)、玉祖命(タマノオヤ)がお供をしています。
アマテラスの命令で、ニニギは新しい土地を求めて南下しました。このとき、お供の1人の瀬織津姫が速川の瀬の急流に足を取られ亡くなりました。ニニギは深く悲しみ、この地に小さな祠を建立し、御霊を慰めました。これが早川神社になったとのことです。
『お供の一人のが瀬織津姫がの速川の瀬・・・』と解釈したら穢れを速川で祓ったとスムーズなのですが・・・上述のように伝わっているのだから、信じておきましょう。
神武天皇のお供(宮崎県御陵神社)
宮崎県の御陵神社の由来には神武天皇の東征に同行した瀬織津姫が登場します。宮崎県の御陵神社は、瀬織津姫の墓の上に建てられた神社なのです。当然、祭神は瀬織津姫です。この由来を見てみましょう。
『瀬織津姫は、神武天皇に同行し、日向国の美々津(現在の宮崎県日向市美々津町)の港から出港し、都へ上る途中、病のため、方財島(現在の宮崎県延岡市方財町)で降りました。その後、大門町(宮崎県延岡市大門町)で亡くなりました。
瀬織津姫は、日向国の杉安峡(現在の宮崎県西都市)の速川の瀬で修行し、お祓いの神様になった神様です。御陵神社は、瀬織津姫の墓の上に建てられています。』
復古神道における瀬織津姫
江戸時代後期の本居宣長や平田篤胤は、国学と称して古事記などを研究し、古神道を独自に解釈した復古神道を構築しました。この復古神道は、明治から戦前までの国家神道や現在の神道の基礎になっています。
本居宣長は、禍津日神(マガツヒ)を瀬織津比売神と同神としています。マガツヒは、古事記では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二神を指します。
石川県金沢市の瀬織津姫神社には八十禍津日神が祀られています。が、別名瀬織津姫ともいわれています。
記紀神話に関係する神様のまとめ
このように現在も記紀神話に登場する神様と関わっている伝承が残っていたり、瀬織津姫の墓があったりします。では、どうして記紀に瀬織津姫が登場しなかったのでしょうか。
記紀は、帝紀、旧辞をもとに編集されたものです。日本書紀には、本文と一書(あるふみ)があり、一書は本文の注釈して使用されています。注釈を用いた文献は東洋では日本書紀が初見であり、画期的な歴史書でした。
この一書を採用した理由は、帝紀や旧辞には古字が多くて理解しづらく、また様々な異伝が存在したので、どれが正しいかわからない場合、「一書(注釈)として全て記せ」と編集者は指示されていたからです。
日本書紀は、海外に日本国の歴史を示す対外的な書物として編集されたので、正確さに重点が置かれました。こう考えると、ニニギと神武天皇とは世代が異なるので、ニニギのお供であり、神武天皇のお供でもあった瀬織津姫は編集者には、瀬織津姫の存在自体が疑われたのかもしれません。
また、古事記は日本国内に天皇が神様の子孫であることを知らしめるために書かれたもので、記載された内容は事実とは異なります。瀬織津姫自体、平安時代の豪族の氏神ではないので、それほど重視されなかったのでしょう。
後に、朝廷が瀬織津姫の存在を消し去るために、あえて記載しなかったと言われるくらいなら、イザナミの神生み神話、イザナギが禊をおこなった時、アマテラスとスサノオの誓約で発生した神様など、どこかに加えたほうが良かったのかもしれないですね。
川の神様
日本各地の河川の水源地や合流点、滝、河口付近や潮が川のように流れる海域に瀬織津姫がよく祀られています。多くの山の頂には大地の神であるオオナムチ(オオクニヌシ)が、滝や水源地には水の神が祀られています。水神社、滝神社、滝川神社、大滝神社などはこれに由来します。
水源地となっている滝の神となっている瀬織津姫の一例をあげます。
島根県の隠岐にある壇鏡神社は瀬織津姫を祀っています。この神社には水源地としての滝の神が祀られた言い伝えが残っています。
約1200年前、松尾山光山寺2代目・慶安法師が、夢のお告げを受け険しい横尾山をさまよっていると、目前に大きな壇鏡の滝が現れました。さらに法師は滝の上を登ると、別の水源の滝があり、傍ら壇の上に一枚の神鏡を見つけました。滝の傍に小祠を建て、鏡を祀りました。後世になり、現在の社地に勧請されました。
高オカミ神や闇オカミ神など様々な神様が水や川の神様になっています。勢いよく流れる水を瀬織津姫と見なし、この水により禊をおこなっていました。大祓祝詞の一節『高山の末、短山の末より、佐久那太理に落ち多岐つ、速川の瀬に坐す、瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ』に書いてある通りです。
実際に禊をおこなっていた例を示します。
福岡県の潮斎(しおい)神社(朝妻神社)は、祭神が瀬織津彦姫神と瀬織津姫です。奈良平安時代に豊玉比古と瑞玉比売神が追祀されました。景行天皇が、この地の朝妻河の畔にたたれ、清く澄んだこの流れで禊をした記録があります。例祭では、参拝者が矢部川清流から杉を挿した竹筒に水を汲み、潮斎神社でお祓いをし、家の浄め家内安全を願うために持ち帰っていました。
滋賀県の唐崎神社(川裾宮)は、知内川(旧大川)、生来川、百瀬川の三本の川と琵琶湖に囲まれた土地にあり、さらに殿田川とみそぎ川の二つの小川にはさまれ、川につからないと行けない境内になっていました。熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)や伊勢神宮の五十鈴川も、徒歩で川を渡ることで禊をし、身を清められるようになっていたのです。
川濯神、川裾神としての瀬織津姫
兵庫県、鳥取県、岡山県、滋賀県、福井県、石川県には川裾信仰があります。瀬織津姫が祀られる川裾神社、川濯神社、川下神社などは、この信仰に基づいています。
川裾信仰は、川で濯ぐ(そそぐ)、川で禊ぎするという意味で、瀬織津姫が禊ぎを司る神様であることに由来します。この信仰は川に穢れを流し無病息災や安全を願う行事でしたが、川濯の濯はそそ(すそ)に通じるため、下半身の病や婦人病に効果があると考えられるようになりました。この神徳は、各地の川濯神に共通しています。
6月、暑くなるので病魔の、梅雨入りするので水魔(水難)の畏れが高まります。そこで、川水で身を清めるなどの川裾祭りと称する行事が各地で多く行われます。
このような川裾神は、大川明神、三光明神、川裾大明神、唐崎大明神と変遷してきましたが、「川裾さん」(かわすそさん)という通称で親しまれています。
北海道博物館の舟山直治、村上孝一、尾曲香織、竹田聡は、北前船の西回り航路により川裾信仰が北海道に伝承したと考え、北陸、関西の川裾信仰の分布について調べています。北海道博物館研究紀要 Bulletin of Hokkaido Museum 1: 73-86, 2016、同2巻: 111-120, 2017、同3巻: 179-192, 2018に、調査結果が詳細に記されています。
川上御前について
福井県の岡太神社(おかもとじんじゃ)では、全国で唯一の紙祖神として川上御前を祀っています。岡太神社は神奈備山の権現山とその麓の里宮があります。川上御前は、1500年前、福井県越前市今立付近で紙の作り方を人に教えた女神で、神の作り方を教え終わると、「岡太川の川上に住むもの」と名乗って去りました。
一方、寛政年間に九頭竜川水系で法恩寺山を水源とする女神川の上流に祭られていた瀬織津姫命や白山麓のミズハノメが、芝原用水取水口の松岡に用水の守護神として勧請されました。幕末に、この神様は地元の要望で川上神社に遷座しました。
川上に住む者と名乗った川上御前と女神川の川上に鎮座していた瀬織津姫が同一視する人も居ます。が、岡太神社の神奈備山・権現山と法恩寺山、岡太川と女神川は、地形的に全く別の山であり、同一とは言えません。
治水の神・瀬織津姫
川は氾濫します。この氾濫を防ぐ神様として瀬織津姫が祀られることがあります。全国の川原神社や速水神社などは、これに由来します。この一例を示します。
三重県の桐原神社は、大己貴尊、瀬織津姫命、熊野杼樟日命を祀っています。
桐原神社の古伝承によれば、村を創った際、白髪の翁が現れ、「予を祭らば村内繁栄、五穀豊饒ならしめん」とのお告げがあったので、祀ったそうです。
社地は、三川が合流する地点で、水害を防ぐため、桐原神社を祀ったとも考えられています。
宗像三女神の滝の神
九州の宗像大社には、スサノオとアマテラスが誓約をしたとき、スサノオから生まれた宗像三女神が祀られています。化生した順に、沖ノ島の沖津宮の多紀理毘売命(たきりびめ)、大島の中津宮の市寸島比売命(いちきしまひめ)、田島の辺津宮(へつみや)の多岐都比売命(たぎつひめ)と古事記に記されています。
多岐都比売命は、日本書紀や宗像大社社伝では湍津姫(たぎつひめ)と記されており、「湍」という漢字は、瀬、早瀬、急流を意味します。おそらく宗像大社のタギツヒメは海の潮流の神様だと思います。これが転じて滝の神様になる場合があります。
岩手県の櫻松神社には、宗像三女神の一柱として、滝津姫命が祀られています。滝津姫命は湍津姫を指します。
この神社の由来を見てみましょう。
その昔、二人の老夫婦が水を汲みに川の上流まで来ると、桜の花が咲いている松の木を見つけました。不思議に思い、上流に行くと川底にきれいな姫が見え、さらに進むと滝が現れました。滝を見ておじいさんは、荘厳な滝の力強さに不動明王の姿を、おばあさんは白糸を織る姫の姿を感じ、不動明王と瀬織津姫を祀りました。瀬織津姫を祀った神社は桜の花が咲いていた松の木にちなんで「櫻松神社」と名付けられました。
この由緒でわかる通り湍津姫と瀬織津姫は同一視されています。また、滝には不動明王が祀られていることが多く、不動明王とも習合しています。
さらに、宗像三女神は水の神であり、弁財天と習合しているので、瀬織津姫も弁財天と習合しているケースがよくあります。
海の神、航海の神
宗像三女神は航海の神様でもあり、これと同一視された瀬織津姫は海の航海の神様にもなっています。
栃木県の荷渡神社は主祭神が瀬下津姫です。当地は昔、海上運送の中継港として栄え、開運安全を願い、速川の瀬にいる瀬下津姫命を奉斎しました。
青森県の水門龍神社は、米代川河口の龍神様を祭り、出漁安全と大漁が祈願されています。祭神は瀬織津姫です。この神社には航海に関する説話が残っています。
能代港は昔、1日に幾十艘もの商船が停泊した港町で、船乗りの享楽の町として繁栄していました。ある日、織物、花ござ、塩などを積んで兵庫の船が入港しました。この船の船頭衆の1人に文五郎が居ました。
文五郎の故郷には、結婚後1年もしない新妻が居ました。が、文五郎は能代で玉葉という女を買いました。だけど玉葉の方は真剣だったのです。
文五郎は、玉葉の美しさに魅せられ、「自分はまだ一人身、女房にしたい」と言ってしまいました。そして、毎夜の逢うようになりました。文五郎の船は商用を済ませ、能代の物産を積み出帆する日が来ました。
出帆の前夜、文五郎は玉葉に一切を打明け許しを乞いました。
船が出航すると、信じていた男に裏切られた玉葉は、船を追い河口まで走りました。玉葉は「この恨みはきっと晴らしてやる」と叫び、そのまま河口に投身してしまいました。
その時、晴天が一瞬にして曇り、豪雨となり、猛烈な西風が吹きました。沖に出た文五郎の船は、暴風雨を避けるため能代港に引返してきましたが、河口付近で難破してしまい、文五郎をはじめ多数の乗組員が溺死しました。
この事件以降、兵庫の船が入ると必ず河口付近で難破したのです。玉葉の恨みと怖れた町の人々は、水門龍神を勧請し、現在の場所に社を建てましてた。それからは、難破事件が亡くなりました。
女の呪いを祓うため水門龍神・瀬織津姫が勧請されたのです。
川の神様としての瀬織津姫のまとめ
川の上流から川下までどこにでも瀬織津姫が祀られているように見えます。が、ミズハノメ、高オカミ神、闇オカミ神、クラミツハなどの水の神が瀬織津姫に対抗しています。古代日本では、水の神に名前など無く、すべて水神とされていたのかもしれません。記紀編集以降、水の神にミズハノメ、高オカミ神などの名称が付与されたように感じます。
また、氾濫が多い川は、ミズハノメが祀られている所に、さらに瀬織津姫が勧請されるなど複数の水神が祀られていたりします。ここでは瀬織津姫だけを調べましたが、他の水神も調べることで、それぞれの水神のキャラクターが理解できると思います。
瀬織津姫は、もともと禊の神様でしたが、川の神、海の神、航海の神と発展している所が面白いですね。