考え方と歴史

仏教伝来

仏教伝来について、仏教伝来推進派の蘇我氏と反対派の物部氏が争ったことは有名です。当時の天皇・欽明天皇は、仏教を導入するかどうか、悩んでいました。そして、蘇我氏だけに、まずは仏を拝ませました。

 

氏神にならった氏寺

 

ついに蘇我稲目・蘇我馬子と物部尾輿・守屋が、崇仏論争で激しく対立し、蘇我氏が物部氏を倒しました。一説によれば、蘇我氏側に聖徳太子も加勢していたそうです。そして仏教伝来が始まりました。

伝来と同時に、氏神の能力を高めるため、氏寺を建立しました。蘇我氏は法興寺、法隆寺、巨勢氏は巨勢寺、葛城氏は葛城寺、物部守屋の末裔の物部氏は渋川寺を建立しました。そして、寺院も首長霊のための祭祀をおこなう場所の一つとされました。

 

常世国信仰へ

 

首長霊信仰ができた3世紀はじめ以降、必要なときに祭祀をおこなう神聖な岩や木(神奈備)、首長の祭殿や古墳に、首長霊が降りてくると信じられていました。そこで、野外の祭殿や首長の祭殿、古墳の前で様々な祭りが行われました。

 

当時の日本人は、体と霊魂とを全く別物と考えていました。子供が生まれた時、神々が住む世界から霊魂が来て、体の中に入り、心を持った人となると考えていました。年を取り身体が死亡すると、霊魂は体から神々の世界に戻っていくと考えていました。この神々の住む国のことを常世国(とこよのくに)と呼ばれていました。また、このような死生観を基にして、下記のように考えていました。

・人の霊魂は、本来、神と同じく善良である。

・人は神様の国から来たのだから、お互いに助け合わなければならない。

・神々が宿る自然を大切にしなければならない。

・神奈備山(神名備山)は、常世国から来た霊魂が人々を見守るため、しばらく留まる場所である(三輪山や出雲の仏教山などが神名備山です)。

 

 

神社社殿の成立

 

仏教伝来以降、氏寺として中国風の壮大な寺院が作られました。だけど、寺院が、祭祀をおこなう神聖な岩や木(神奈備)、首長の祭殿や古墳などと置き換わることはありませんでした。寺院は、中国の学問を知る場所と考えられたのです。仏教は、学問的に有用でも日本の祭祀を補うものとみなされたのです。

 

仏教の役割と神道の役割を区別するため、天武天皇は、天神、国神を奉る本殿を持つ神社を建立していきました。寺院と区別するため、神社の建築様式は日本の伝統的な工法でつくられました。これらの神社は、中央の神祇官の保護と統制のもとに置かれて官社と呼ばれました。そして、「天皇は全国の神々の祭り手である」という発想が広まっていきました。

 

<まとめ>

仏教伝来により氏神を祭る氏寺の建立が進められていきました。だけど、寺院はあくまで中国の学問を学ぶための場所で、祭祀をおこなう場所とはみなされませんでした。そして、仏教を学ぶための寺院と祭祀をおこなうための場所を区別するため、全国に神社が建立されていきました。神社は、中央の保護と統制のもとに置かれ、「天皇は全国の神々の祭り手である」という発想が広まっていきました。

 

 

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