古事記』の中でも特に有名な登場人物の一人が、倭建命ではないでしょうか。政権に従わない者たちを討伐すべく、西に東にと遠征し、沢山の話が記されています。病の為に大和に帰りつくことなく亡くなってしまうという最期もドラマチックで、故郷を思って詠んだ歌は、古典の教科書で取り上げられたりもしています。
悲劇のヒーローとしても扱われる倭建命ですが、実はその伝説を最初から見て行くと「文句なしの英雄」とは言い難いということが分かります。先ず、父である景行天皇から遠征に向かわせられる理由が穏やかではありません。例えば、勇猛さを買われたという話であれば、倭建命も、もう少し心持ちは異なったでしょう。ですが実際は、父は息子を恐れて地方に遠ざけていたのでした。
では、父を恐れさせた彼の振る舞いとはどういうものだったのでしょうか。
その事件が起こった時、倭建命は「小碓命(オウスノミコト)」と呼ばれていました。名が「ヤマトタケル」になったのは、征西して熊曽建(クマソタケル)を討った後のことです。この、あるミッションを終えて名前が変わるという形は、大穴牟遅神が須佐之男命の許での困難を乗り越えた後に大国主神となる形に似ています。
父である第十二代、景行天皇は非常に子どもが多く、記録に残っている子で21人、その他にも59人、合計80人居たと『古事記』には記されています。その中で小碓命は、皇后の第三皇子という立場でした(『日本書紀』では第二王子で、且つ兄の大碓命(オオウスノミコト)とは双子とありますが、『古事記』では更に上にもう一人兄が居り、双子であるという記述もありません)。
当然、妃の数も多い景行天皇ですが、ある時、美しいと噂に聞く二人の姉妹、兄比売(エヒメ)、弟比売(オトヒメ)を迎え入れようと計画し、小碓命の兄である大碓命を姉妹の許に向かわせました。
ところが、ここで事件が起こりました。何と大碓命は二人を自分のものとしてしまい、父である天皇には、偽って別の娘を差し出したのです。真実を知った景行天皇は、献上された偽物とは婚姻関係を結ばずに終わります。
そんな大碓命ですが、父の前に出る事に躊躇があったのか、或いは確信犯か、姿を見せません。そこで天皇は小碓命に命じます。
「どうしてお前の兄は朝夕の食事に出て来ないのか。お前から丁寧に教え諭しなさい」
しかし、それから五日が経っても兄は現れません。改めて天皇は小碓命に「どうして兄は出て来ない、まだ言っていないのか」と問いかけます。対しての答えは──「既に確り行いましたが」。
この辺りの部分を古文で見ると、天皇の仰せは「ねぎ教え覚せ」、対して五日後の息子の答えが「既にねぎつ」とあります。
動詞「ねぐ」とは“いたわる、ねぎらう”という意味ですから、天皇の思いとしては「優しく諭せ」という感じです。……が、小碓命の「ねぐ」の解釈はかなりやんちゃな物でした。
父の「どの様に諭したのか」の言葉に返されたのは驚きの内容でした。
「早朝、兄が厠に入ったところを待ち伏せして捕まえ、掴み潰し、手足はもいで、筵に包んで投げ捨てました」
厠とは川屋で、川の上に作られたトイレです。そこで待ち伏せして、殺してしまっていたのです。小碓命は、言わば「お礼はたっぷりしてやりました」という感覚だったのかも知れません。
しかし、驚いたのは父である景行天皇です。息子の粗暴な振る舞いを恐れた天皇は、命令を下します。
「西に熊曽建(クマソタケル)という二人の兄弟がいる。我らに従わない奴らを討ってこい」──熊曽とは九州南部の辺りで、九州筑前国の風土記には「球磨囎唹」とあります。球磨は熊本に名が残り、囎唹は曽於で鹿児島に。対して、景行天皇の宮、纒向(マキムク)は奈良県。つまりは、体よく遠ざけられたのです。
尚「タケル」の語ですが、熊曽の兄弟二人が名乗り、また、出雲でもタケルが登場することを考えると、固有名詞というよりも、剛の者、あるいは集団のボスの意味合いと捉えられます。
命を受けた小碓命は未だ少年の年齢であったことが、記されている髪型から窺い知れます。逆に言えば、十代の若さでそれだけの腕力、胆力を持っていたとも言えるでしょうか。
西に乗り込む前、彼は叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から衣装を貰い受け、懐に剣を忍ばせて行きます。
現地では、ちょうど熊曽建の家が新築されるところでした。その祝いの日を待って、小碓命は髪を垂らし、叔母から貰った衣装を身にまとい、少女の格好で宴席に単身、紛れ込みます。しかも、その姿で熊曽の兄弟を魅了し、二人の間に座る事に成功します。
事を起こしたのは、宴もたけなわとなった頃です。
最初に狙ったのは兄の方でした。懐に隠し持っていた剣を出すや、兄の襟を掴んで引き寄せ、その胸に剣を突き立てます。
気付いた弟は逃げ出しますが、直ぐに追いかけ、今度は背後から剣を突き刺しますが、まだ息のある弟は、「話す事があるから、剣を動かさないでくれ」と一度、その手を止めさせます。
その後に続いた弟からの誰何に対し、小碓命は答えます。
「纒向の日代宮(ヒシロノミヤ)にて大八島國(オオヤシマグニ)を治める大帯日子淤斯呂和気天皇(オホタラシヒコオシロワケ)の子、名前は倭男具那王(ヤマトオグナ)」
上にも記しましたが、纒向とは奈良県の桜井市。卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳のある土地です。八島は多くの島から成る国という意味で日本の事を示します。そしてヤマトオグナは小碓命の異称で、オグナとは少年という意味があります。
名乗りの後の「父から西に従わない者が居るからと命じられ、お前たちを討ちに来た」という言葉に、熊曽の弟は返します。
「そうでしょう、西に我らより強い者は居ない。だが、倭に強い者が居た。我らの“タケル”の名を差し上げよう。これから貴方は倭建御子と名乗るが良い」
その言葉の後、今度こそ、弟は断ち切られて絶命します。そしてこれが、「倭建命」への変化の瞬間になるのです。
この様にして任務を果たした倭建命は、その帰る道すがらにも、山の神や川の神、海峡の神などを従えて行きます。
更には、出雲の国において出会った、出雲健(イズモタケル)についても刀を偽物にすり替えて騙し討ちにしました。場所は肥河とありますから、かつて天界を追放された須佐之男命が降り立った辺りです。暴れていた八俣遠呂智が倒され、後に大国主が治めた出雲も、天孫降臨が成って以降は、政権にとっては征圧すべき厄介な場所だったのでしょう。
ともあれ、こうして戦果を上げた倭建命は、父の許に帰りつきます。……ですが、武功を上げた息子に、天皇は直ぐに無情な命令を下すのでした。