古事記について

神社に祀られている神様にも色々なタイプがあります。

例えば、そのプロフィールが日本史の教科書に載っている神様が居ます。これは死後に祀られる事になったパターンで、学問の神様として受験生が詣でる天満宮の菅原道真や、日光が本宮となる東照宮の徳川家康などが有名です。また、幕末史を語る上で外す事のできない吉田松陰は、その名のままに松陰神社で祀られ、平安時代に活躍し沢山の伝説を残した安倍晴明は、屋敷跡が晴明神社となっています。この様に、歴史上の人物が没後に祀られる事は、実は珍しくないことです。

日本の神様

とは言え、やはり神社で一番数多く祀られているのは、「日本の神話」に登場する、生まれながらの神様であり、この「日本の神話」はイコール『古事記』や『日本書紀』等で語られて来た神話と言えます。「神社」というものが、これら「記紀」等で記された神々を軸とする「神道」の祭祀の場だという性質を考えれば、この流れは理解しやすいでしょう。
こちらも例を挙げるならば、伊勢神宮に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、八坂神社には須佐之男命(スサノオノミコト)、出雲大社には大国主神(オオクニヌシノカミ)など。また、熱田神宮のご神体で、三種の神器の一つでもある「草那芸剣(クサナギノツルギ)」は、須佐之男命が八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を退治した時にその尾から発見された剣で、その後、東征に赴く倭建命(ヤマトタケルノミコト)に伊勢の叔母が与える形でも登場しています。

古事記を筆録、編纂した人物

この様に「神典」の代表とも言える『古事記』が成立したのは712年。献上された元明天皇は、天武・持統両天皇の間に生まれ、皇太子の時代に世を去った草壁皇子の妃だった人です。
元明天皇から三代前になる天武天皇の時代(凡そ三十年前になります)にその記憶力を買われ、『帝紀』、『旧辞』の誦習を命ぜられた稗田阿礼(ヒエダノアレ)が口述するのを太安万侶(オオノヤスマロ)によって筆録、編纂されました。

『帝紀』と『旧辞』は残念ながら共に現存していません。内容は天皇の皇位継承や、それに関わる伝承等をまとめたものと言われています。
因みに『古事記』の序には、天武天皇に見込まれた時の稗田阿礼の年齢は28歳だったとありますから、成立した時には五十代ということになるでしょう。

もう少し解説を加えると、かつては『古事記』の特徴として“紀伝体”というキーワードが挙げられていましたが、“紀伝体”とは、「本紀」と「列伝」から構成されるが故の名称で、『古事記』は人物中心の叙述ではあっても、正しく紀伝体という物ではありません。日本の、これぞ“紀伝体”と言える歴史書は、江戸時代に徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』が挙げられます。

また、『古事記』の成立には政治的な思惑が存在しています。一つは歴史書『古事記』が成立することで朝廷の権威が明確になるということ。二つには、「天孫降臨」という天照大御神の孫にあたる邇邇芸命(ニニギノミコト)が地上に降りてくるというストーリーが、持統天皇から孫である文武天皇に譲位が為され、そして、これから為されるであろう、元明天皇から孫の聖武天皇への(実際には未だ若年であるという理由から、聖武天皇の伯母である元正天皇が間に入っています)繋がりの正当性を示すものとなっています。

では、日本の神話はどのように始まるのでしょうか。

古事記1をご覧ください。