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瀬織津姫についてまとめてみた!!!①に引き続き
この瀬織津姫を祀る全国の神社の由来を調べ、大きく以下のように分類しました。①では、1、2について説明しました。
- 記紀神話に関係する神様
- 川の神様
- 東北・遠野物語に関係する神様
- 田村麻呂を助けた神様
今回は、3.東北・遠野物語に関係する神様について説明します。
遠野物語とは…
柳田國男は、明治43年(1910年)、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを、遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家・小説家の佐々木喜善から聞き、これを記し説話集にしました。
この遠野物語の第二話に以下の話があります。
大昔、女神が居て、三人の娘を連れ、遠野の高原に来ました。来内村・伊豆権現の社ある場所で一泊した夜、「今夜、よい夢を見た娘によい山を与えよう。」と母の神が言って寝ました。
夜も更けた頃、天より霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まりました。この霊華はよい夢を見させる神でした。末の姫が眼覚め、ひそかに霊華を取って胸の上に載せました。
末の娘は、こうして最も美しい早池峰の山を得ました。姉たちは六角牛と石神とを得ました。
若い三人の女神は三山に住み、今も山々を支配しているので、遠野の女はその嫉妬を畏れ、この山に入りませんでした。
遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)の由来のような伝説ですが、遠野物語第二話の母神が瀬織津姫なのです。
早池峰山の女神・瀬織津姫
岩手県の早池峰山への登山口は、山の東西南北に存在し、四方の登山口それぞれに早池峰神社があります。 西の登山口(大迫町)には元池上院妙泉寺の早池峰神社、東の登山口(江繋)には元新山堂の早池峰神社、北の登山口(門馬)には元新山大権現の早池峰神社、南の登山口には元持福院妙泉寺の早池峰神社があります。
登山道が4つあるのは、それぞれの登山道で独立した修験道の団体が活躍していた事に由来します。白山修験道の越前馬場、加賀馬場、美濃馬場と同じです。
これらは山頂にある奥宮に対する里宮で、いずれも祭神は瀬織津姫です。早池峰の山頂にはふたつの社があり、西麓と南麓の里宮の奥宮があります。このことは、早池峰山の山の神が瀬織津姫であることを意味します。
また、早池峰山・南の登山口の南方には、神遣(かみわかれ)神社があります。遠野物語に登場する3姉妹が、ここで別れたので「かみわかれ」と言います。さらに南方には、遠野物語の舞台になった伊豆権現こと伊豆神社があり、母神が祀られています。
早池峰開山について
瀬織津姫と同一視されている早池峰山はどのように開山されたのでしょうか。立花靖弘「史実と民間伝承のあいだ」湘北紀要、第27号2006年に詳細が書かれています。
遠野市史によると、806年、藤蔵により開山されました。藤蔵は、猟師であり、伊豆山で修業した修験者でもありました。
藤蔵が生きた9世紀前半はどのような時代だったのでしょう。6~7世紀は、大和朝廷が国土統一をすすめた時期で、8世紀に入ると大宝律令(701年)が施行され、中央集権的古代国家が確立します。それから1世紀後、律令制度が荒廃し、制度の建て直しが迫られた時代になります。
一方、699年、役小角(えんのおづぬ)が流罪となり伊豆山に流されました。701年に許され、故郷の奈良県に戻りました。この役小角の修行は衆生救済を目指したもので、そのための自己鍛錬と反骨精神の堅持がありました。
役小角は、朝廷に取り入って栄えた奈良仏教とはちがい、山岳に修行の場を求め、民衆の信仰心を支え、見えない姿で庶民の宗教的向上に尽力し、長い間、崇拝されたのです。
このような名声が残る伊豆山で藤蔵は修行したのです。おそらく藤蔵は役小角に憧れていたのでしょう。
8世紀末から9世紀前半にかけて、律令制度の建て直しにより、各地で反乱がおきます。蝦夷の反乱が780年、朝廷の征夷大将軍・坂上田村麻呂による胆沢城築城が801年です。このような時代に藤蔵は蝦夷の地に行きました。
早池峰開山に関する遠野市の隣町・大迫町に伝わる伝説を見てみましょう。大迫町の兵部という者が、奇妙な鹿を追って山頂に来ました。同じとき、遠野の来内村の藤蔵も、奇妙な鹿を追って頂上に来ました。そこで二人は金色の光の中に姫大神の姿を見て、感激し、二人力を合わせ、お堂を建て姫大神を奉ったのです。
同じく遠野の伊豆神社由緒書の伊豆神社の獅子頭奉納由来の伝承はこうあります。藤蔵が早池峰山山頂に草堂を建てた話を聞いた伊豆・走り湯の修験者が、はるばる東北に来て、権現の由来をもとに獅子頭を御神体として奉りました。
これらの伝承は、藤蔵を通し、人間の共感・共同する力を示しています。争いが絶えなかった東北に平和をもたらした修験者なのかもしれません。
岩手県田中神社の由緒によれば、大迫町の兵部は藤原鎌足を遠祖とし、藤原実房の子の藤原藤原兵部卿成房と言います。瀬織津姫を勧請し、早池峯神社の前身となる田中神社を創建した人です。また、父・藤原実房は中央を離れ大迫で定住し、この子孫が山陰氏になります。
このように東北の修験道を見ていると、静岡県の伊豆半島と関係しています。近畿から東北への海路の中継点だったからなのでしょうか。
竜神・瀬織津姫
静岡県や東北では、いきなり瀬織津姫が現れる伝説がたくさんあります。まず、静岡の例を見てみましょう。
静岡県の御前崎付近、池宮神社の近くにある桜が池に、敏達天皇の代に瀬織津姫が池に現れました。そして、これを祀るため池宮神社が創建されました。
この池には竜神伝説があります。
平安末期、比叡山の皇円阿闍利は、世の中を幸せにするために弥勒菩薩に教えを乞うと言い、桜ヶ池に入り竜神(大蛇)になりました。これ以降、秋の彼岸に赤飯を詰めたお櫃を池に沈めて竜神に供える「お櫃納め」祭が行われています。
数日後、空になったお櫃が浮くのです。桜ヶ池に沈めたお櫃が、竜神伝説の残る長野県諏訪湖に浮いたことがあるそうです。だから、桜が池と諏訪湖は地中でつながっていると考えられています。また、静岡県浜松市の池の平には7年に一度、幻の池が湧く不可思議な現象が起きます。これは桜ヶ池の竜神が諏訪湖に行く際、休息することによるのです。
東北でも瀬織津姫がいきなり現れています。
福島県の宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)は、瀬織津姫を祀っています。この神社が建てられた由来は、いきなり瀬織津姫が現れたことによります。
宇奈己呂和気神社の社伝によれば、欽明天皇の時代に、安積郡高旗山山頂に瀬織津比売命が現われたので祭祀された事が当神社の始まりと伝わっています。この社伝によると、瀬織津姫は八十禍津日命と同じ神で、また伊勢神宮の荒祭宮や廣田神社で祀られているアマテラスの荒魂で、世の中の罪穢を清める神となっています。
朝廷の権力が及ばない東北に対し、瀬織津比売命の神助で平定されるよう祈願を込めて祭祀されたとされたと推定され、延暦3年(784年)、高旗山山頂から現在の鎮座地へと遷座しました。
また、早池峰山のはるか西方、紫波郡矢巾町にある早池峰神社でも瀬織津姫がいきなり現れた伝承があります。この神社では、社殿もない延暦十四年(795年)に三柱の姫神が降臨したとの伝説があり、本殿背後に影向三神石と呼ばれる四個の神石があります。おそらく、母神と三人姉妹の姫神なのでしょう。
このような瀬織津姫の顕現伝承は、修験道や東北の蝦夷平定に関係しています。蝦夷平定はむ後述します。修験道と瀬織津姫は、どのような関係があるのでしょうか。
熊野古座川に磐座する瀬織津姫
熊野、潮岬の近く、紀伊大島の北方の海に注ぎ込む古座川は、昔は祓川と呼ばれていました。
古座川には社殿がない古神道時代の神社が二つあります。河内神社と祓の宮です。祭り神は、河内神社がスサノオで、祓い宮は瀬織津姫です。熊野でスサノオと言えば、根の国の王・スサノオを言います。熊野信仰について、ここで詳しく述べている余裕はありませんが、ざっくりと言って古代熊野は死の国と見なされていたのです。ここから熊野詣や山岳信仰が発生していくわけです。
熊野川の支流の十津川には、死の国熊野ならではの変わった風葬がありました。十津川河川敷にお墓を作るのです。洪水になると墓は流されてしまいます。すると、死穢れが川により海に運ばれたということになります。大祓の詔にある通りなのです。
古事記に瀬織津姫が登場しない理由は、古代人の生活にとって瀬織津姫の働きがあまりにも当たり前すぎたから、と私は推定しています。
古事記では、川により流された穢れを海で浄化する神様を機能的に細分化し、その由来を説明をしていますが、川により穢れが海(常世国)に運ばれる事は当たり前すぎて、何を今さらという感じだったのでしょう。書籍に記されない事は、誰もが知らない不明確なものと誰もが知っている当たり前すぎるものなのです。
話を戻しますが、河内神社は川の中にある岩を御神体とし、祓い宮は神森、すなわち神の住む森を禁足地として祀っています。このような祭祀方法は、古神道では一般的で、古代日本では日本各地の集落にあったと推定されていますが、現在は数えるほどしかありません。
蛇足ですが、瀬織津姫を祀る岡山県早滝比咩神社は、熊野十二社の一社を勧請したと言われています。が、熊野十二社の中に瀬織津姫、速秋津姫、天吉葛命(あめのよさづらのみこと)を祀る宮はないのに、これらの神が祀られています。いったい、熊野のどの神様を勧請したのでしょう。
この熊野信仰が東北まで伝承する過程は、五来重著「山の宗教」に詳しく記されています。
まとめ
藤蔵により修験道が早池峰山にもたらせられるのが9世紀前半で、坂野上田村麻呂による蝦夷討伐と同時代なので、瀬織津姫が、修験道と共に伝承されたのか、後述する田村麻呂により伝承されたのか、よくわかりません。単に藤原成房が勧請したことによるのかもしれません。