神仏習合と鎮護国家思想

天武天皇の命令により神社が日本中に作られました。そして、天武天皇の時代と次の持統天皇の時代に、中央で仏教文化が急速に広まりました。当時の人々の服装などは大和時代と同じでしたが、天武天皇により唐風化されました。天武天皇は、新たな貴族層を作りたかったのです。このために中国の律令制度を取り入れていきました。このような急速な中国化を指導した知識層は、大寺院の僧侶たちでした。

 

南都六宗

 

奈良時代の仏教は、あまり有名ではありませんが、三論宗、成実宗、法相宗(法隆寺、薬師寺)、倶舎宗、華厳宗(東大寺)、律宗(唐招提寺)の六宗があります。宗とついても、現在の宗派とは異なり、各寺院で仏教の勉強をしていただけで、それぞれの宗に特徴はありませんでした。

 

このころの仏教は鎮護国家思想が主流でした。この鎮護国家思想とは、「仏の力が国を安定させてくれる」とする考えであり、このため仏教は朝廷の統制下に置かれました。

 

国分寺と国分尼寺

 

聖武天皇の鎮護国家思想から、諸国に国分寺、国分尼寺が建てられ、平城京には、国分寺として東大寺が建てられました。こうして、諸国の国分寺・国分尼寺に有益な知識を持った僧侶が集まり、地方の人々に中国の文化を広めていきました。

 

神社が中心となった祭祀

 

大和時代は大自然の中で祭祀をしていました。古墳や神奈備など様々な場所で祭祀をおこなうことができましたが、神社の出現によって祭事の場所が限定されてしまいました。自然界のどこにでも神が居たと考えていたのに対し、神社のみが神が居る場所となってしまったのです。さらに、仏教は、当初、よくわからない物とされていました。いくら仏像が伝わっても、そんなに簡単に仏教は理解されません。よく勘違いされる人が居ますが、仏教伝来とした550年頃は、仏教について正しく理解していた日本に一人か二人程度でした。

 

ちなみに、フラシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えたとき、本当に正しくキリスト教を理解していた人は居ないと考えています。カトリックは、教義より実践を重視したため、キリスト教理解は全くされませんでした。キリスト教と称して、ギリシャの神・ゼウスを拝んでいたり、密教の神・大日如来を拝んでいたりしました。簡単に宗教は伝わらないのです。

 

仏教は学問、神は神道・神社と分けられていましたが、仏教が理解されていくに従い、仏教と神道は、本来、同一であるとする考えが生まれました。これは、仏教なのに神(天)が存在する密教の役割が大きいと考えます。そして神社のそばに寺を建立することにより、神様の力を強めようとしました。このように建てられた寺を神宮寺といいます。

 

最澄と空海

 

ここで、最澄と空海が伝えた仏教を見てみます。最澄が、遣唐使として唐に渡ったのには、一つの大きな理由があります。先に説明した奈良仏教は、最澄が活躍した頃には、すでに堕落していたのです。当時の天皇である垣武天皇もそのことは知っていましたが、仏教の僧のとして認める権利は奈良仏教の各派が持っていた(というより牛耳っていた)のです。垣武天皇は、僧侶の堕落ぶりを見て、伝来した仏教を廃止しようか、悩んでいました。

 

ここに最澄が現れたのです。最澄は、日本に伝わった経典だけでは、仏教が理解できず、遣唐使に志願しました。また、垣武天皇は、堕落した仏教の立て直しを最澄に託し、最澄を唐に派遣しました。最澄は、天台宗が一番素晴らしいと考え、中国天台宗で修行しました。だけど、この天台宗は唐の時代の仏教ではなく、ひと昔前の隋の時代の仏教でした。また、最澄は垣武天皇のために、少しだけ密教を学んで日本に帰りました。この密教を台密といいます。だから最澄が伝えた天台宗の密教は不完全なものでした。最澄の弟子の円仁や円珍により、台密は完成されます。これに対し、空海は、偶然にも中国の密教のトップから指導を受けることができました。そして空海が日本に戻って開いた真言宗は東密と呼ばれました。

 

最澄に話を戻しますが、最澄は、奈良にしかなかった仏教の僧を認める権利を垣武天皇から頂きました。そして奈良仏教を痛烈に批判しました。垣武天皇は、奈良仏教に牛耳られていた特権(仏僧の資格を認める権利)を、最澄に与えることにより奈良仏教の勢力を弱めたのです。

 

ところで密教は、どんな宗派なのでしょうか。実は神が居る宗派なのです。釈迦がなくなった後、仏教はどうなったのでしょうか。釈迦が亡くなってから、700年後には、釈迦の神格化が起こります。すなわち、世の中には超越した存在が居て(大日如来)、この超越者が姿を変えて現れ、真理を説いたのが、釈迦であると考えるようになったのです。そして、密教では、大日如来を中心として、様々な神が存在すると考えられました。これは、ヒンズー教の影響です。神が居る仏教は、神仏習合にとって、最適だったのです。

 

<まとめ>

 

仏教が伝来した当時は、まったく仏教が理解されず、中国の優れた学問とされました。このため、仏像を拝むと国家が守られる鎮護国家思想が現れました。また、国分寺・国分尼寺を建立することにより地方にまで、中国の優れた文化(じつは律令制度)を伝えることができたのです。

 

さらに、神社が建てられたことにより、今までは大自然の中で行われていた神道の祭祀が神社で行われるようになりました。また、仏教が理解されるに従い、仏教の仏と日本の神は同一のものであると考える人もいました。この思想から、神宮寺が建てられました。

 

本格的な神仏習合が始まったのです。

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トリー

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